ルテリカ王国物語第三章 変化と成長の兆し◆6

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時は夜。
酒場で情報収集を済ませた一行は、少しの買い出しをしたあと宿へと足を運ぶ。月明かりが大通りの石レンガに、背の低い影と背の高い影を照らし出す。
「すっかり暗くなっちゃった」
「どこかの呑んだくれのおかげでな」
ケビンの言葉に、フェリクスが自分の背中を見た。
彼に背負われているカタリナはずいぶん前から爆睡中だ。その寝顔に色気など微塵もなく、だらしなくよだれを垂らしている。
フェリクスとケビンが酒場に着いたときにはすでに彼女はカウンター席に堂々と居座って、顔をほんのりと朱に染めていた。二人が酒場に足を運ぶまで十分もなかったので、アルコール度数のかなり高い酒を呑んでいたことは明らかだった。
「こういう日は決まって夜中に目が冴えて眠れないとか言って俺を起こすんだ。まったく勘弁してほしい」
「はは、フェリクスも大変だね」
「俺の予想じゃ、お前も大変になると思ってる」
「どういうこと?」
「夜になればわかることさ。きっとあいつに自分の正体を明かしたことを悔やむだろうよ」
フェリクスがいたずらに笑い、ケビンは首を傾げている。結局それ以上彼が詳細を口にすることはなかった。
宿に戻ったフェリクスとケビンは部屋の前の廊下で別れ、それぞれの部屋に入る。
フェリクスはカタリナをベッドに寝かせて毛布をかけ、隣のベッドに潜り込む。今晩起こることを想像してため息をついてから、睡魔に誘われていったのだった。

「ねーねー、フェリクス。起きて起きて。目が冴えて眠れないの」
「まーた始まった」
カタリナの元気ハツラツな声にまぶたを持ち上げ、フェリクスは気だるそうな声で口にした。
予想はしていたものの、やはり気持ちよく眠っているところを起こされると腹も立つ。しかし慣れてしまった彼は、すぐにその怒りを鎮めてしまった。
「サバルトは魔女に寛容な町なのよ。今やらずにいつやるのよ!」
「魔法の訓練をしたいなら昼間やればいいだろう。サバルトは魔女に寛容な町なんだから」
「お酒は昼呑むほうがおいしいの。以上」
「昔、その言葉の夜バージョンを聞いたことがあるんだが?」
カタリナは夜、目が覚めると、決まって魔法の練習をしたがる。今まで住んでいたティリスでは、練習は人目につかないところでやる必要があったために夜やるのはフェリクスも賛成だった。
しかし、ここでは昼にやっていようが誰も咎めない。人間は夜行性動物ではないのだ。日が昇っている間に活動したほうがいいに決まっている。
「実は、サバルトでも人目を避けて夜にやる正当な理由があるわ」
心を見透かしたようにカタリナが言い、フェリクスが続きを促す。まあ答えはわかっているのだが。
「ほう。その心は?」
「ケビン……もといリーゼロッテ様に教えを請うのよ!!」
「そんなことだろうと思ったよ」
ケビンは男装してまで少女であることを隠している。そして魔法は女性にしか使えない神秘の力だ。人目のあるところでケビンが魔法を使っては、あっけなくケビンの本当の性別がバレてしまい、運が悪ければリーゼロッテ・フォン・カルフォシアその人であることまで芋づる式にバレかねない。フェリクスもそんな面倒ごとに巻き込まれるのはゴメンだ。
そんなこんなでランプを手に取り火を灯したカタリナが、意気揚々とケビンの部屋に足を運ぶ。部屋のドアをノックして、ケビンを呼んだ。
「リズー、起きて」
「ちょ、その名前で呼ばないでよ!」
ケビンはこの夜中に起きていたようで、カタリナが名を呼んだ瞬間部屋のドアを勢いよく開け放った。やきもきした気持ちを胸いっぱいに広げて、やや顔を染めているのが見て取れる。
「騒ぐと他の客が起きるぞ」
フェリクスがケビンをたしなめる。ケビンはため息をついて現状を諦観し、静かにカタリナに用件を訊ねる。
「……何の用?」
「魔法の教えを請おうと思って」
肩をすくめるフェリクスが、諦めろ、と言いたげにしているのを見て、ケビンはそういうことか……と独り言をこぼした。
「しょうがないなあ……とりあえずここじゃ無理。場所を移そう」
「わかったわ」
場所を町外れの荒野に移し、月明かりの下、見習い魔女と百年に一度の鬼才の魔法の講義が始まった。
フェリクスは魔法に関しての知識はなく、他に手伝えることはないので、少し離れた場所にいる。一応、町に近いところで人が来ないように見張りを任された。
「最初に訊きたいことがあるんだけど、言霊以外の媒体を通して魔法を使ったことはある?」
「訊かなくてもわかるでしょ。そんな経験ないわよ」
「だろうね」
「私みたいな見習いが、言霊以外で魔法を使うのは難しいんでしょ?」
魔法を発現させるのに、絶対必要になるもの。それは想像力だ。
想像力をもっとも効率よくエネルギーに変換できるのは、言葉。曖昧なイメージを自分で実際に口にして、形のあるものにしていく。それが魔法の基礎であり、基本である。言うなれば、言霊を用いずに魔法を行使できるようになると、それは脱初心者の証明にもなる。
「とても難しい。でも……うーん、そうだなー。実際にやってみたほうが早いかも」
「何をするの?」
「洞窟で僕を助けてくれたとき、カタリナさんはとっさに土の精霊に呼びかけて鉄の壁を作って防御してくれたらしいじゃん? もう一度ここでやってみせて」
「えー、そんなこと言われても……できるかなあ」
カタリナはあのとき必死だった。だからこそ限界を超えた力を引き出せたのだ。いわゆる火事場の馬鹿力というものだ。
そもそもケビンはもっとわかりやすいコツなどを示してくれるのだと、カタリナは思っていた。なので正直、あまり気分が乗らない。
「いいから、やってみて」
「うーん……」
しかし、夜中に押しかけて教えを請うたのは自分だ。まるで子どもに片足を突っ込んだままのようなカタリナにだって、少しくらい自分の立場をわきまえて動くこともできる。とりあえず彼の指示に従うことにした。
しぶしぶ今日の明朝に洞窟で王国兵に追われたときのように、腕をまっすぐに伸ばし、深呼吸。目を閉じて心を落ち着かせ、言葉をつむぎ始めた。
「〝土の精霊を従えし大いなる存在よ、黒鉄の障壁を用いて我らを守りたまえ〟」
詠唱が終わり、しばらく待つ。沈黙が場を支配し……何も起こらなかった。
夜の闇の中、カタリナの言霊は何一つ結果を残すことなく、風に乗って消えてしまった。
カタリナがうなだれて弱音を吐く。
「ダメだわ。やっぱり私、治癒以外には向いてないんだわ」
「じゃあ次、この枝に火を灯してみよう」
ケビンがすぐそこに落ちていた木の枝を手に取り、カタリナに渡す。守護魔法の手応えさえつかめないまま次の段階に進まれてしまった彼女は、困惑の表情でそれを受け取った。
「え? 壁はもういいの?」
カタリナにはケビンの手ほどきの意味がさっぱり理解できていなかった。派手な魔法を実践してみせてくれるものだとばかり思い込んでいた彼女は、こんなやりとりに価値があるのかとさえ疑問に感じつつあった。
だが、腑に落ちないその複雑な思いは、あっという間に融解して消滅することになる。
「誰にでも得手不得手はあるよ。でも、前に言ったでしょ。試さずに諦めるのがダメなんだって」
カタリナはティリス市街を出た晩、森で野宿したときのことを思い返す。暖をとるための焚き火の火種に、フェリクスが火打ち石を使おうとしていたときのことだ。あのときは無下に扱ってしまったが、確かにそんなことを言われていたのを覚えていた。
「だからとにかく片っ端から試す。それが僕の指導のやり方であり、今まで僕の続けてきた努力でもある」
自分にできるかできないか、それを試すことなく決めつけて諦めるのは、可能性を自ら捨てる愚かな行為だ。今のカタリナには、それがよくわかっている。
「カタリナさんに何が向いているか、僕がそれを見極める。だから、まずは試すんだ」
「なるほどね。私、やってみる」