チキータの遺産第二幕 地方都市ロシュエル◆1

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窓から差し込む朝日に顔を照らされて、フラビオは目を開けた。そういえば体が横になっている。操縦席は狭いので横になるのは不可能。フラビオは気付かぬうちにシェルへと移動していた。
起き上がって、寝ぼけた頭を左右に振る。すぐ横を確認すると、そこには誰もいない。
(コラソンとチキータはどこへ行ったんだ?)
「まさか……!!」
頭の中を顔立ちの整った、しかし卑しい眼帯男の顔がよぎった。鈍っている体にムチを打って慌ててシェルを飛び出し、ビークルから飛び降りる。東から届く日光に目が眩んだ。しかし、心配は無用だったようで、彼女は当然のように、そこにいた。
揺れる黒い長髪に隠れる小さな背中、そしてその横には、茶色のフード付きローブをまとう細身の背中が並んで、二人でどこかを見据えている。フラビオも視線を同じ場所に移すと、その先には地方都市ロシュエルを囲む高い石壁が見えた。地方の都市と言えど、隣国リコテスカ王国と河川を挟んで接する重要な貿易の拠点。その城壁は立派なものだった。
フラビオが踏む落ち葉の音に気がついて、どこか寂しげな顔をしたチキータが振り向いた。今までハイメとなにか話していたようだ。
「あ……フラビオさん」
「おう、おはよう」
フラビオはチキータがの横に立つハイメをちら見してから、彼女にいつものように挨拶をしたが、なぜかそれに返事は返ってこない。
毎日のように悪夢を見るというチキータが、朝、元気がないのはいつものことだったが、挨拶がないのはこれが初めてだ。そしてまた、悪夢の話が一日の最初の会話で出てこないのも、今日が初めてだった。
「ようやく起きたみたいだね」
ハイメがこちらに振り返って言った。片目を隠すその眼帯はもう付け直されていたが、フラビオはその声にすぐに違和感を覚えた。いつもの無感情さが感じられないのだ。何かを慕う甘えのような感情が、非常に薄くだったが、それでも確かに、言葉の表面に付着している。
だがそれもすぐに抜けていき、相変わらずな淡々とした声になった。
「よく眠れたかい? 僕のおかげで眠ることができたんだ、感謝しなよ」
「わかってるよ、助かった」
先ほどのハイメの声に、どことなく透明感のようなものを感じ取れたのは、おそらくチキータと話していたからだろう。
肝心のチキータが元気そうでないことは引っかかったものの……義理とはいえど、姉弟という繋がりはなかなか切れないものだ。片方が記憶を失くしていても、姉弟二人きりで話せたことが嬉しかったのかもしれない。
「チキータになにかしてないだろうな」
「チキータの意向を大きく変化させるような助言はしない。それが僕のポリシーだ。記憶がない今、僕がチキータの選択と決定に手を下すようなことはしない」
チキータの様子のこともあって、一応ハイメを問いただす。だが必要以上には聞き出さない。知らず知らずのうちに、フラビオはハイメに対する警戒を解いていた。
ハイメだって、誰にどんな一面を見せるか無意識に選択しているだけで、常に冷えきっているわけではないのだ。二人が話していた直後のあと彼の声音を聞いて、フラビオはなんだか清々しく思い、そんな考えを抱いた。
「そういえば、コラソンは?」
「まだシェルの中で寝ていると思うけど、いないのかい?」
「いないから聞いてんだよ、知らねえか?」
「さあ、僕たちがビークルを離れたあとに彼女もどこかに行ったのかもしれないね」
「そうか」
そう言って踵を返そうとすると、ハイメが思い出したように訊ねてくる。
「そういえば、フラビオくん。指輪はキミが持っているのかい?」
「まあな。あまりチキータに持たせておくのは気が進まないもんでな」
フラビオは自分の荷物入れから銀の輪を取り出して見せる。
「チキータに持たせておいたほうがいいなら返しとくけどよ」
「いやいい。それは誰にも渡すな。キミが大切に持っていればいい」
指輪の正しい使い道が分からないフラビオは、これを自分が持っていても仕方がないのではないかと思い始めてハイメに預けようとした。だがそれはすぐに拒否される。
ハイメの言っている言葉の意味はよく理解できなかったが、心を見通す彼にこういった扱いを受けるのは、自分がチキータの仲間だと認められていることが目に浮かんで見えるようで悪い気はしない。
「そか。んじゃ、ちょっくらコラソンを探してくるわ」
チキータと二人きりにするのは問題ないだろう。なんだかんだでハイメを信用しだしていたフラビオは、それだけ言って再び踵を返そうとする。
「あ、そうそう……チキータに変化を感じたのなら、それは彼女自身の判断だと考えるといい」
「…………」
去り際、発せられたその言葉に、フラビオは無言のまま歩みを止めない。加えてコラソンが言っていたチキータの夢についての言葉、そして昨日の夜のチキータが脳裏に思い起こされる。
――最近見るっていう夢は、暗黒時代での自分のしてきたことなのかもね。だから、私たちには言いたがらないんだと思う。
昨晩、チキータはフラビオに相談を持ちかけて、だが結局話すことができなかった。恐らくは……悪夢について。自分が犯してきた、罪について。
フラビオは自分が寝ている間、二人は何を話していたのかが不意に気になったが、フラビオは何も言わずにビークルの方へ戻っていった。
ハイメに打ち明けることができたのなら、それでいい。記憶に関わる内容ならば、尚更ここは自分が出る幕じゃない。そんな判断を下して、フラビオは自分を律した。
ビークルが置いてあるところまで戻ると、自分が戻ってきた方向以外にもどこかに足跡がないか探した。そしてそれはすぐに見つかる。
その足跡は脇道の森の奥へと続いていて、途中まではたどることができたが、木の葉が増えてきたところで見失ってしまった。
もともと、すぐに見つかると思っていたから跡を追ってみたのだ。どうせすぐに戻ってくるだろうと考えたフラビオはこのまま執拗に探す必要もないと感じて、引き返そうとする。
しかしそこに、女性の声が聞こえてきた。
「何してるの? こんなところで」
コラソンだ。声だけでわかったフラビオは背中で答えて、後ろからも見えるように肩の上で小さく手を振ってみせる。
「それはこっちの台詞だっつーの。朝食にするぞ」
「ちょっと……お花を摘みに」
「なんだ、便所か。ずいぶんと長かったな」
「なぁッ……!!」
コラソンは駆け足で枯れ葉を踏みながらフラビオの横にまで寄ってきて、声を高くして文句をつけてくる。恥ずかしがっているのが声だけで分かった。
「な、なんでダイレクトな言葉に変換し直すわけ? ていうか長いとか言わないの。デリカシーがないにもほどがあるわ」
しかしフラビオはコラソンを異性として見ていない。心の知れない仲でもないし、別にトイレに行っていた、と口にするのははばかれたりしないものだと思っていたのだが……。
「はいはい、悪かったよ……あ……」
横に並んだコラソンを見て、フラビオは思わず足を止めてその顔をまじまじと見つめ返してしまった。いつもならコラソンは朝起きてすぐ髪を結んでいる。
だが、今日はまだその長く艶やかな髪が、ポニーテールにまとめられていなかった。動き回るのに髪が邪魔だという彼女にしては、珍しいことだ。
「どうしたのよ」
コラソンが首を傾げてその髪の束を揺らす。人工的に縛り上げられていない髪は風に舞って、そこから飛散する女の子の香りがフラビオの鼻腔をくすぐった。同時に、徐々に頬が熱くなるのを自覚していく。横になって寝付いている彼女の束ねられていない髪は何度も見ているが、こんな風に揺れ動くコラソンの髪を見るのは初めてだった。
このときのフラビオはとてもマヌケな顔をしていた。
「髪を解いてると可愛いな、お前も」
「…………アンタ、頭でも打った?」