チキータの遺産第四幕 殺戮の化身◆2

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ロシュエルの遥か上空で身を投げたチキータは、まず背中に魔法でできた翼を生やし、速度も安定、方向のコントロールも安定させてコラソンの心の声に聞き耳を立てた。
ハイメと契約している、かつ歴史上随一と言われた魔力を存分に発揮したチキータならば、自分の属性とマッチしない氷の魔法でも使いこなすことは簡単のことなのだ。そしてすぐに、ここを見つけ出した。
しかしチキータは一人で魔法を発動できない。必ず、誰か自分の心を預かっていてくれる人物が必要になる。もしそれが悪人であればチキータはその凶悪な力で悪事を働き、それが善人であれば善事を働く。ただし、どこまでが善でどこまでが悪なのかは、指輪の使用者の判断による。
カシアは未だに悶絶している。チキータがゆっくりと彼女のそばを通り過ぎたが、止める者はいなかった。
チキータがカプセルの前に立つ。そして手を当て、中に眠る赤髪の、裸体の少女をしばらく見つめていた。
「待って! その……それは壊さないで……」
「あは、あははは……アンナだ。会えてうれしい……でも、死んでる」
「チキータ……」
尻すぼみのコラソンの呼び声に、チキータが振り返る。
「確かに、わたしを使えば生き返るかも。そしてきっと、今後は、普通に人間として、生きていくことができる。でも、本当にコラソンは、うれしい? 話したことも、ないのに」
「それは……」
チキータは見下すわけでもなく、興味なさげにコラソンに訊ねた。やはりその瞳に光はないが、闇に染まっているわけでもない。極めて中立的で、しかし不安定だ。すぐに何かに移り変わっていきそうな、振れ幅の大きい心の揺らぎが感じられる。
例えコラソンはアンナと話したことがないとしても、蘇生したいという願いは揺るがなかった。チキータは、自分の命と引き換えにしなければならないことを分かった上で訊いてくる。
コラソンは思う。もしもカシアが言った通り、自分もカシアと同じく狂人であるならば、きっと自分がしようと願っていることはおかしいことなのだ。
しばらく石レンガの床を見つめて悩むが、答えは出ない。彼女は自制と願望に板挟みにされて、もがき苦しんでいる。まだ、正常な判断ができない。
「許さぁあああん!!」
コラソンの思考を遮って、片腕をなくしたカシアが義手と膝を付いて座り込んだまま、土魔法で攻撃を仕掛ける。轟音を轟かせながら石床から何本もの岩のトゲが生え、チキータを串刺しにしようと襲いかかった。それはチキータの初撃を防いだときの比ではなく、とてつもない力が注がれている。
しかしそれはチキータが構えた腕から発現した氷の盾で大部分が防がれたあと、直後に生まれた水で簡単にべたべたの泥へと戻された。
「うるさいなあ……わたし、今、コラソンとお話してるんだよ」
チキータが防御から一転、続けざまに電撃を放つ。中空を伝った電撃は弾けてから再度多方面から収束するようにしてカシアにまとわりつき、その体を魔力で縛り上げる。チキータの魔法で拘束されたら最後、チキータ自身にそれを解いてもらう以外抜け出す手立てはない。
チキータが勝ったも同然だった。
「あは、ずいぶんと、弱くなったね。もっとかかると思ってた。戦争も終わって、ずいぶんと平和が続いたからかな」
しかし、余裕そうに言いつつカシアの攻撃を完全に防ぎきったわけではなかったチキータも、かなりのダメージを負っていた。自ら素早く水魔法で応急処置を施したが、出血は絶え間なく続く。
「はあはあ……マリノの……仇……」
カシアが細い呼吸に織り交ぜて、復讐の意思を口にした。その言葉はチキータの気に障った様子で、碧眼と蒼眼、二つの目を鋭くしながらしかし淡々と、その心境を述べていった。
「そもそも、マリノがハイメの父さんを……わたしのお養父さんを、殺したのが悪いんだよ。それに仇討ち……それって楽しい? 私、つまらないって知っちゃった。復讐は復讐しか生まないって、身を持って知っちゃったよ……カシア、もうやめよう。誰も幸せにならないし、満足しないよ」
チキータのそれは、アンナによってもたらされた感情。ハイメによって記憶が消されていた時期も含めて、一度足りとも忘れることのなかった大切な考え方だ。だがカシアは、話し合いで解決に導こうとした今は亡きアンナの意思を、間接的に否定してしまう。
「知るかそんなもの……! お前が死んでくれれば私は満足だ! コラソン! この馬鹿娘を説得しろ! そうすればアンナは生き返る。そして私の復讐は果たされる! 一石二鳥だ、さあ、早く!」
アンナを根本的に否定されたような気がして、チキータは眉をひそめた。
チキータの言い分に聞く耳も持たず、しわがれた声をどんどんかすれさせて、カシアは叫ぶ。コラソンに命じる。
「何のためにチキータとお前を仲良くなるように仕向けたと思ってる! ここで役立たないようじゃ、お前は生きている資格なんてない! 無価値だ!」
「無価値……」
コラソンはそれだけつぶやいてあと、その余韻で開口したまま何も言わない。カシアの罵詈雑言が、耳から入るだけ入って理解する前に抜けていく。いや、理解したくないのだ。
結局、自分が利用されていただけだったなどという、非情な現実と向き合う勇気がコラソンにはない。カシアのために自分が犯してきた罪は数えきれないのだ。こんなの、もう隠し通すことはできない。表沙汰になれば当然自分は裁かれる。明るい未来がその先に待っているとは到底思えない。
どこか遠くを見つめるように、ピントの合わない瞳をしばらくカシアに向けていた。
(はは……今まで私、何でこんなのを信じて生きてきちゃったんだろう……)
「コラソン、ニック! 大丈夫か!」
そこへ、天井に開けられた大穴からハイメとフラビオが降りてくる。二人は本来の予定通りの道、つまりイラーナの幻影魔法でなんとか検問をくぐり抜け、そしてようやくたどり着いた。
フラビオとハイメの二人は、緊迫する辺りの様子に気圧されて黙りこむ。
そしてフラビオは血まみれのチキータに駆け寄ろうとしたが、ハイメに黙って制止された。彼は、状況の理解はあと回しにしようと考えた。
「コラソンは、無価値なんかじゃないよ。私のこと、大切にしてくれるもの」
正気なのか狂気なのかいまいちわからない態度を続けながらも、チキータが口にした。
理性と感情を削りとって、魔力操作に当てているのだ。今のチキータはまるで幼児退行をしているかのようである。これは確かに、気が狂っているのかもしれない。だがその中で状況を的確に判断し、目標を見失わない強い精神を兼ね備えている。
コラソンが懺悔をするように言葉を漏らしていく。
「大切にしてたのは、私のためよ……カシアさんに手を貸すために、私は嘘をついていた。大切にしている振りをしていた……だからやっぱり無価値だわ。私に価値なんてない」
コラソンは自分の心の内を包み隠さずぶちまけたつもりだった。しかし、その言葉にもまだ無意識に、包み隠されている内容がある。それには、コラソン自身も気づいていない。
それを読心で見抜くのは、この場ではたった二人だけ。そしてその一人、チキータがささやくように言う。
「コラソン、今、嘘ついてる」
「へ……?」
「コラソンは、本気で私のことを大切にしてた」
「そんな、わけが……」
「この服と帽子、私が大事にしてること、コラソンは喜んでる。気持ちがこもっていなければ、そんな気持ちにはならない、はず」
コラソンの中は、確かに複雑な感情が入り混じってぐちゃぐちゃになっている。しかしそれはチキータをただ恐怖したりだとか許しを請うだとか、そんな単純な感情ではなくて、もっと表現の難しいものだ。そしてそんな薄っぺらい感情に埋まってしまった、コラソン本人ですら気づかないほどの奥底には、確かな罪悪感とともにチキータへの強い愛情が埋没している。チキータはそれをすくい取っていた。
つい数日前、チキータがフラビオやコラソンと出会って一周年のあの日。コラソンが用意したプレゼントである帽子と服。それはほとんど破れたりしていない。目立つのは、ついさっきのカシアの魔法による傷だけだ。
チキータの言葉に、コラソンは目頭が熱くなり、いてもたってもいられなくなった。顔がぐしゃぐしゃになって、嗚咽が漏れる。ついには大粒の涙がこぼれ始めた。
コラソンの心に刻まれた前科は、間違っても消えない。だが、チキータの言葉、端から恨んでいないという気持ちを受けて、彼女は体が軽くなった。