チキータの遺産第四幕 殺戮の化身◆1

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猿ぐつわを噛まされたまだ年端もいかない少年が、魔法で縛り上げられ拘束されている。カシアに連れられて暗闇の中を無理矢理歩かされたあとにたどり着いたのは、アンナの裸体が眠る、件の巨大なカプセルの前だった。
「カシアさん、待ってよ! ニックを使うなんて聞いてない!」
コラソンが涙ながらにカシアを押さえつける。さすがというべきか、兵器として生み出された魔族の一部の力を受け継いでいる彼女の両腕を使えば、カシアの歩みを阻害するのは簡単だった。
だが、コラソンは戦う意思のない相手には本気を出せない性分なのだ。アンナの力を受け継いでいるがゆえに、自分は強すぎる。そう考えているから。
それはカシアも知っている周知の事実。本気で飛びかかる勇気のないコラソンでは、絶対的な願望に突き動かされているカシアは止まらない。もう気持ちは揺るがないのだ。
コラソンの思いはカシアの心意気には遠く及ばず、いつの間にか腕が振り払われていた。
「ニックは一番最後の最後のはずでしょう? 本当に足りなくなったそのときだけだって、言ったじゃない!」
「わからないのかねえ」
取り乱すコラソンのは正反対に落ち着いた、しゃがれた声でカシアが言った。
「……?」
コラソンには、何が? と質問する気力もない。考えて答えを出す気力もない。止めようとするだけで精一杯だ。
「コラソン、お前、結局孤児院に訪ねてきてないだろう?」
「それは……だって……」
一人ひとり、少しずつ孤児院の子が減っている。人間の子も同じくらいいるはずなのに、なぜか魔族だけだ。その理由を知っているから、それを目の当たりにするのが怖かった。足を運ぶたびにともに暮らした家族たちがいなくなっていくのを、見てしまうのが怖かった。
ニコラスが連れて行かれるのを見たのはただの偶然だ。なんだかとても嫌な予感がしたのだ。だからここに来てみれば、その嫌な予感が当たってしまっていた。ただそれだけ。
「残念だが、もう、魔族はこの子しかいない」
そのときのカシアはすべてが怪物じみていた。別段、カシアは今までと変わっていない。狂気そのものだと、コラソンがようやく気がついたのだ。
「嘘……でしょ……」
「そもそもこの子が一番なついていたのはフラビオだろう? お前が止める理由なんてありゃしないじゃないか。さて……この子の次はどこかから誘拐しなければいかんな」
コラソンも、最初からこの人は裏表が激しいと感じていた。外面を取り繕うのが気持ち悪いほどうまい。それこそ、帝国や王国、そして当然伯爵も欺いて強い権力を握りしめてしまうほどにだ。だが長い間一緒にいたせいで、いつの間にか裏の顔も大して恐ろしいものではないと錯覚していた。しかしそのことに気がついてしまった。
(今度は誘拐……? どうして、平気でそんなことを口にできるの……?)
しかし今ははっきりと言い切れる。この女性は、頭がおかしい。どうかしている。
「ば……馬鹿言わないでよ! 止める理由? そんなものが必要? だって……おかしい……おかしいんだもん。いくら……いくら祖母を生き返らせるためだとしても、別の命を奪っていいわけがないじゃない……」
鼻で笑うでもなく、カシアはただただ、思った通りのことを言葉に変えていく。
「何を今さら。私がおかしい、と……では、私の手助けを十年近くしてきたお前も、大概だねえ。同じくらいに狂っている」
「そんな……私は、そんなつもりじゃ……」
コラソンが直接手を下したことは一度もない。だが救い出そうとしたこともなかったし、最終段階に踏み切るための材料集めには積極的に手を貸した。その事実は消えない。
だが帝国の法に則った場合にカシアを罪人とするならば、罪の幇助もそれ相応の罰が下る。コラソンも同じく、罪人として余生を過ごすことになるのだ。
犯してしまった罪は、消えない。もし表に出ないようにもみ消すことに成功したところで、自分自身の内には一生残り続ける。
と、そんな中、唐突にそれは現れた。
天井が破壊され、石の破片が飛び散る。どうやらそれは空から降ってきたようだった。まるでハヤブサのように超高速で急降下してきたが、地下室の床にたどり着くなりぴたりと速度をなくして、ふわりと降り立つ。優しい衝撃波が四散した。
長い黒髪を頭に乗せた魔族の少女。白と赤を基調としたドレスのような、それであって飾り立てすぎていない質素な服を身にまとった少女。
身長もまだ高くない女の子だった。それはコラソンも、カシアもよく知っている人物で、二人してその姿に釘付けになっていた。
二人に眺められながら、胸に抱いていたつば広帽を被る。少女は顎を上げ、見下し気味にその緑と蒼の二色の瞳を、ギロリとカシアに向けて言い放つ。
「見ーつけた」
だが、こんな風に、派手なことをする彼女の一面をコラソンは知らない。
「派手にぶち抜いてきたけど……誰も殺してないみたい……良かった……大丈夫。今なら、何でもできそう……あは……」
その声はイントネーションが狂っていて、その言葉を耳にする者たちに不安を与える。今までコラソンが狂っていると感じていたカシアまでもが固まって、そのドレスの少女に釘付けになっていた。
違うのは二人の態度。コラソンはただただ驚愕に目を丸くし、カシアは強い憎しみで額にしわを寄せている。
それはまるで、死という概念を直接を運ぶ死神のようだった。
それはまるで、まだ我慢というものを知らない無邪気な子どものようだった。
それはまさしく、生きたカオス。殺戮の化身と形容された彼女、それだった。
狂った少女は風に乗るように、すっ……と素早く前に出て、スカートをひるがえして白い脚を晒しながらカシアに蹴りを入れる。が、それは石床から生えてきた頑丈な壁によって防がれた。カシアの魔法によるものだ。
攻撃は防いだものの、カシアの盾は粉微塵。辺りに石の欠片が散らばった。あの渾身の一撃の威力は、コラソンの正拳突きさえ上回るかもしれない。
「……いたい」
少女がまたも風に乗り、通常ではあり得ない動きをして滑るように元の場所に戻った。蹴りに使った右脚を見下ろす。肌をじかに晒していた部分で放った一撃を止められてしまったというのに、傷一つついていない。
「何か妙な真似をしてみろ。この子の命は……」
カシアがそう言っている間に、ふっと少女が視界から消える。いや、見えないほどの速さで動いて、カシアの背面に立ったのだ。そして風の刃が彼女から放たれる。風が通り過ぎていった場所は、カシアの片腕のすぐそこだ。もちろん、義手ではない方である。嫌な音を立てて彼女の腕が落ちた。
腕が落ちてもなおカシアは数瞬の間、少女が消えたその場を見据えたまま呆けていた。
「うぐ……ああああ!」
あまりにも鋭すぎたその一撃に、遅れて血が吹き出し、さらにそれに遅れて気がついたカシアが悲鳴をあげた。その隙に少女はまたも目にも止まらぬ俊敏さで動き回ってカシアに捕らえられていた魔族の少年、ニコラスを救い出した。
「腕二本、なくなっちゃった……あは。二本目もぎ取るのに、二百年もかかった」
「貴様、よくも……」
「次は、どこがいいかなあ……足かな? ねえ、どこがいいと思う?」
少女は笑って、心底楽しそうに言いながらカシアが精一杯注ぎ込んだ魔力で作ったニコラスの拘束をいともたやすく解きながら彼につぶやいた。
理性のない二色の瞳。それに恐怖を覚えたニコラスは、声をあげてコラソンの方へ逃げ出してしまう。
「残念、怖がられた」
ゆっくりとコラソンとニコラスに向けて首を動かし、不安を植え付ける奇妙な声音で少女は言った。少しだけ不機嫌になったようだが、そこまで気に留めていないようでもある。ニコラスがまたびくりと体を震わせた。初めてここで、少女はコラソンと目が合う。
「チキータ……なの?」
「そうだよ。ちょっとおかしいのは自覚してるけど、ゆるしてね」
許して。そんな言葉を言われてしまったコラソンは、とっさに自分も謝罪の言葉を口にしようとする。本当に謝らないといけないのは、自分のほうのはずだ。
「ごめん……チキータ……私、あなたにひどいことを……」
「ゆるしてあげる。コラソンのこと、わたしは好き、だから」
まるでまだ物心のない子どものような、たどたどしさを感じる言葉の使い方。あまりの変わりように声が出なかったが、それを聞いてコラソンは少しだけほっとした。もしあたり構わず魔法をぶちかまされたら、ただじゃ済みそうにない。
コラソンは、チキータに敵視されていない。それは彼女にとって安心できることであり、嬉しいことだった。