藍色のハンカチ2 夏、ツーサイドアップの女の子
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数秒後のことだ。晴れた視界は一変していた。雪なんて、どこにもない。
セミの声が幾重にも重なり、しゃあしゃあと僕の鼓膜を震わせている。僕は別段驚かなかった。
おそらく、今の季節は夏だと思われる。なぜなら、ジャンパーを着ているせいでどんどん汗が肌着へと滲んでいる気がするからだ。というか、滲んでいる。僕は黙ってジャンパーと上着を脱いでかばんにしまい込んでラフな格好になった。
たまに、あるのだ。時間移動、タイムトラベルとしか言いようがない、こういうことが。僕はまた片手でポケットの懐中時計をいじる。どこの誰なのか思い出せない人物からもらった懐中時計をお守りにしているのが原因だろうが、こういう不可思議な現象に巻き込まれて今のところ大変に困ったことはないし、詳しいところは割愛することにする。冒険心を刺激してくれるこの古びた懐中時計は、日々退屈している僕にはなくてはならないものだ。
ただしこの時間移動は自分の意思ではなくランダムかつ唐突に、言うなれば懐中時計の意思によって行われるので、困る点があるとしたらそこだろうか。今も夏だというのにジャンパー片手にスノトレシューズという珍妙な格好を晒すはめになった。
僕はまず、飛んだ先が過去か未来か探ることにした。周囲には田畑が広がったままで、景色も雪化粧が解かれたこと以外変わっていない。場所に関しては一ミリもずれていないようだ。初めてこんなことが起きた日には混乱したものだが、今ではすっかり日常化しているので手慣れたものである。
ふと正面に視界を戻し、すぐに足元を見る。道がアスファルト舗装されていない。わざわざアスファルトを剥がして道をダートに戻す理由なんていくら考えても出てこなかったので、僕はここが過去ではないかと推測した。まあ、今のところ未来に飛んだことは一度たりともないので、断定しても構わないと思う。
一通り状況の確認を済ませると、僕は自分の顔がニヤけていることに気がついた。最初のうちは現代に帰れるか心配したりしたものの、今となってはそんなこと考えもしない。これは異常なことかもしれないが、僕を蝕んでいるのが強い好奇心だというのなら本望だ。それは理性から解き放たれた、本当の自分なのだから。
額を汗が流れ、それを藍色のハンカチで拭う。とりあえずセミの下手くそな合唱がうるさいと感じた僕は場所を移すことにする。僕はメモ帳を片手に、ひとまず国道を目指した。
歩きながらメモ帳に視線を移す。先ほどの道は、ちょうど十年前にアスファルトになったことが記録してある。当時の僕は二歳なので覚えているはずなどないが、別の日に時間移動したとき、それを正確に確認する機会があったので間違いない。
時間移動をするようになってから、移動先を把握する目印になりそうなものはいつできたものなのかメモする癖をつけている。国道が完成したのは五十年前なのだが、さすがに五十年以上も昔だとは今までの時間移動の経験によって端から考えていない。景色もそんなに変わっていないし。最終目的地は国道沿いの文具店だった。あそこは三十二年前に開店し、十七年前に一度改装している。
ちなみに今が何年の何月何日なのか、それを把握する必要はとくにない。ただ、時間移動する力があっても不安定な上、刺激を求めるくらいしかしたいことがないので、趣味を楽しむように時間を消費しているだけである。実際に僕は今最高に気分が高揚している。いざ、どうしても今がいつなのか気になったのなら、住人を探して聞き出せばいいだけのことだ。
やがて農道から国道に出て、今が五十年も前ではないことが確認できた。まあ、予想していたことだけれども。
降り注ぐ日差しを受けながら、国道にそって歩く。この歩道はいつできたのか、そんなことも記録しておくべきだったなどと考えながらしばらく足を動かしていると、新築同然の文具店が見えてくる。改装前の文具店と改装後の文具店を記憶の中で照合した結果、これは改築後の状態だと分かった。
つまり、今は十年前から十七年前の間であることがわかる。しかも文具店は結構にピカピカなので、改装からあまり時間は経っていないだろう。範囲を大きくしぼることに成功した僕は、ひとまず満足した。
「まあ、来るまでの間の家を見てなんとなく予想はついてたけど」
そうつぶやいてから僕はまた歩き出した。
だが、なんとなく、なんていう曖昧な表現では納得がいかない性分なのだ。だから文具店まで足を運んだ。ついでに言えばこの満足も所詮はひとまずなのであって……要するに、何月何日とまではいかなくとも、何年前なのかくらいは正確に知りたいという欲求がまだ残っている。
だがそれは強欲というものかもしれない。そんな情報本当は必要ない上に、一度も「今が何年なのか」というところまでしぼりこめた実績がない。加えて手がかりがもうないのだ。タイムトラベルのトラベルという単語は、移動ではなく旅行という意味を持っている。今回の趣味はこれでおしまいにして、時間旅行者らしく少し観光していこうか。
「ぐすん……ひっく」
そんなことを考えていると、前からプール道具をさげた幼い女の子が一人、泣き声を出して歩いてくるのが見えた。ツーサイドアップにした短い髪をくしゃくしゃにしている。涙を拭い終えてはっきりと視認できるようになったその女の子の顔に、僕は殴られたような衝撃を覚えた。
「あ……」
姉だ。
今とは当然背丈が全然違うし、髪型も全然違う。だが十二年もの間、ともに暮らしているのだ。アルバムは恥ずかしがって隠しているので見たことはないが……それでも見間違うはずがないと確信できる。
何度か時間移動をしているものの、移動先で知り合いに出くわしたのはこれが初めてのことだったので、僕はかなり動揺していた。ポカンと口を開けた状態でまじまじと見つめていると、目が合ってしまった。こんな……可愛い女の子を放置しているなんて、親の顔が見てみたい。
「どうしたの?」
思わず声をかけてしまっていた。というか、可愛いと思ってしまった自分が憎い。いつもいつも自分を良いように使う姉に対して可愛いだなんて、思ってしまった。なんて屈辱的なんだ。
「お母さんと、お父さんが……うわああん!」
まるで僕が泣かせたかのように、今まで以上に大きな声で泣きわめき始めた。さっきのセミのほうが幾分マシだったかもしれない。
勘弁してほしい。人通りが少ない田舎だから良かったものの、ここが都会だったら不審者扱い間違いなしじゃないか。普通は中学生が小学生くらいの女の子を連れていてもどうとも思われないなんて考えそうなものだが、時間移動の副作用なのか、僕は少々老け顔なのだ。高校生と中学生で料金が違うサービスで、中学生だと言っても信じてもらえず、生徒手帳を出すはめになることもあるくらいだ。
姉のことは気に入らないけども、それは決して嫌いというわけではなく、むしろ自分を育ててくれて感謝している。ここまできて見捨てるのは罰当たりというものだ。
「お名前は? 言える?」
僕はまだ幼い彼女に優しく語りかけ、事情を聞くことにする。この女の子が姉であることに大きな自信を持ってはいるが、僕の勘違いの可能性も捨てきれないので、とりあえず名前の確認をしておこう。
「……シモサトリョウカ」
「リョウカちゃん?」
「そう」
確かに彼女はシモサトリョウカと名乗った。姉と同じ名前だ。もちろん苗字は僕とも一致している。僕の確信は間違っていなかった。
「もしかして、迷子?」
まだ僕の胸にも届かない背丈の子どもだ。こんな小さな子が両親と離れて、家から遠いところを一人で歩き回るなんて、それくらいしか思い浮かばない。だが、それを訊ねた途端。
「うわああん!」
リョウカはまた泣き出してしまった。自分が迷子で、両親と離れ離れになってしまっている事実を思い出させてしまったのは良くなかったかもしれない。
「よし。お兄ちゃんが探してあげるよ、一緒に」
「一緒に?」
「うん」
「ありがとう……お兄ちゃん」
涙を溜めたままリョウカは言った。普段姉のことはリョウカとは呼ばないので、便宜上この子のことはリョウカと呼べは都合がいい。姉にお兄ちゃんと言わせることが出来て、少し僕は気分が良くなった。そして実に珍妙な事態に、僕は強く刺激されて好奇心がどんどん満たされていった。