藍色のハンカチ3 夏、乾く喉、間接キス

3

「お父さんとお母さんを最後に見たのは?」
「すぐそこのコンビニ。プールの帰りに寄ったんだけど、いつの間にかはぐれちゃって……」
話を聞けば、徒歩でプールに出かけたその帰りにジュースを買いに寄り、そのコンビニの中ではぐれたという。あのコンビニはそんなに広くないのではぐれるなんて考えにくいのだが……状況とリョウカの心情から察するに、先に帰ってしまったのではないかと考えて自分からコンビニの外に出てしまったのだろう。
藍色のハンカチを取り出して、零れ落ちそうだった雫を拭ってやる。
「じゃあ、とりあえずコンビニに戻ってみようか」
「うん」
涙が拭われたその顔は、いつも関わっている姉からは想像ができない天使のような笑みに変わっていて、僕は心が洗われるような気分だった。
両親も、すぐにリョウカがいなくなったことに気がついて店周辺を探しているに違いない。そんなことを考察していたとき、ふと僕は自分は欲がない人間だな、なんて思った。時間遡行する力を得て、何もすることがないから今がいつなのか当てる遊びをして、時間を潰すだなんて……いくらランダム要素が強いからと言っても、二歳のときに父を亡くした人間がとる行動じゃない。普通だったら……そう、自分の父親に会いに行きたいと願うのが普通の思考のはずだ。そういった考えに至らない自分は、酷い親不孝者なのではないか、と自責してみたりした。
「リョウカちゃんのお母さんは、どんな人?」
「優しいよ、たまに怖いけど」
概ね、僕が未来のこの子に抱く感想と同じである。
そして恐る恐る次の質問に移った。
「じゃあ……お父さんは?」
「お父さんはもっと優しい。お仕事が忙しくても、休みの日には帰ってきて遊んでくれる。今日もプールでたくさん泳いだんだ。お父さんはクロールが上手で、とても速いの」
リョウカは舌足らずの言葉で、一生懸命に父親の良さを説明した。
「そっか……とても楽しそうだね」
明らかなお父さん子という反応に、僕は急に物悲しくなってしまった。そして少しばかり彼女に嫉妬してしまった。父と母、両方の親に当然のように愛されて、ここまで育った彼女に。父の性格や声を覚えていない自分は、なんて恵まれていないんだと、そんなことを思ってしまった。時間旅行者になってから今まで、一度も父に会いに行くという思いすら浮かばなかったのは、父のことが気になりすぎて自分が壊れてしまわないように、潜在的に心の奥底へと父という存在を隠していたからかもしれない。
嫉妬の炎に身を任せて「キミのお父さんはもうじき死ぬんだ」なんて言って彼女を傷つけてやることもできなくはないが、僕は感情には流されにくい性分だ。損得で考えて全く合理的ではないのだから、そんなことしたって仕方がない。こんな幼い女の子に八つ当たりしても、僕の父は生き返らない。
コンビニに到着しガンガンに効いた冷房で涼みながら、店員に迷子の女の子を探している親がいなかったかと訊ねると、その両親なら先ほど店を出てしまったと言う。完全にすれ違ってしまったようだ。
手がかりがなくなった僕たちは一旦コンビニを出て田畑と民家を眺めた。十年あまりの歳月が流れれば景色は確かに変わっていくが、大きな変化はない。そして僕はようやくひらめく。
「あ、そうか」
むしろ、なぜ今まで気が付かなかったんだろう。自宅を目指せばいいのだ。よく考えたら僕はこの子の自宅を当然知っているわけで、最初からそうすれば良かったのだ。僕はその足で自宅へ向かった。
リョウカを引き連れて、自宅に向けて歩を進める。道もほとんど変わらないので、レジ袋を持っていれば時間移動前にあった状況とそれなりに似ている。ただ完全に違っているのは、季節が真反対ということと、姉がまだ自分より年下という点だ。そんな風に言葉にしてしまうと、姉と弟という概念が完全に崩壊しているのが露見して、僕は少し面白く思った。
しばらく歩いてリョウカが疲れたと言ったので、僕は彼女をおんぶして歩いた。なるべく木陰を通って歩いていたが、それでも暑い。汗が出る。喉が乾く。そして子どもというのはもっと軽いものだと思っていた僕は、その考えが甘いとセミに嘲笑われている気がしてきた。
何度かずり落ちてきたリョウカの位置を持ち上げて、体勢を立て直しながら進んだ。
「しかもこいつ……いつの間にか寝てやがる」
肩のすぐそばにはあどけない少女の顔があって、その筋の通った鼻からは規則正しい呼吸音が漏れている。しかし寝心地が良さそうとは言えない表情ではある。実際問題として、リョウカの肌は汗だくで、僕の背中も彼女の汗でびしょびしょになっていた。
いくらかして、広々とした公園が見えてきた。広さのわりに遊具のない、件の公園だ。僕はちょうど木陰になっているベンチにリョウカを寝かせ、自分もすぐそばに座って休憩した。
ハンカチで額を流れる汗を拭う。リョウカの表情は、先ほどより幾分良くなっているように思えた。しかし傾く日はすでにあかね色で、リョウカを見つけてから結構な時間が経っている。コンビニに立ち寄ったとき、店員に彼女を預けるほうが正しかったかもしれない。自宅へ向かうにしても、伝言くらいは頼んでおくべきだったと後悔した。
喉がカラカラだった僕は、ベンチからやや離れた公園の中心にある上に水が出る形をしている蛇口をひねった。ちなみにこれは正式に呼ぶと立形水飲水栓というらしい。だが、その立形水飲水栓の小さな穴はずっと天を見ているだけで、いつまで経っても水を吐き出そうとしない。
「どうなってんだよ……」
「お兄ちゃーん! それ、今壊れてるらしいよー!」
意地になって蛇口を回しまくっていると、いつの間にか目を覚ましていたリョウカが衝撃の事実を突きつけた。これじゃ、水分補給ができない。冬からやってきて当然暑さ対策なんてしていない僕は、今にも死にそうだった。よたよたとベンチに引き返す。
そういえば、リョウカは大丈夫なのだろうか。そう思って彼女を見ると、水筒をプール道具の袋から取り出して、美味しそうに飲んでいた。それを恨めしそうに見ていると、彼女はこう提案する。
「お兄ちゃんも飲む? お兄ちゃんが死んだら私も困るし」
飲まなきゃ死ぬという前提で勧めてくることに悪意など存在せず、それは子どもの純粋な気持ちと少ない語彙からなのだろうが、核心をつく言い回しにも思えた。実際にすでに意識が朦朧としていて、ふとした瞬間に闇へと引きずり込まれてしまいそうだ。
「どうぞ」
だが……。
「飲まないの?」
その頬を赤らめた表情は、純粋とは言いがたかった。その水筒は直接口をつけて飲むタイプで、飲み口が一つしかない。つまりこれを受け取って飲むことは間接キスになる。どうもこの子はそれを分かっていて、しかも恥じらった上で渡してきている。リョウカがにこにこと何も考えないで渡してくれていれば、絶対僕までこんなこと考えて躊躇しなかったのに。
いや待て。逆に考えよう。シモサトリョウカは僕の姉となる女の子だ。つまり家族になるのが決まっている。家族との間接キスに躊躇なんて必要ないんじゃないか?
「いやいや……」
僕は苦笑いし、思わず口に出して否定した。十二年間姉と一緒にずっと暮らしてきたけど、一度も間接キスなんてしたことない。まあ、母親に近い存在として僕を見守ってくれているので覚えていないだけかもしれないが、意識的にしたいとは思わない。
「あー、うん、じゃあ、頂こうかな。ありがとう」
だが、死ぬよりはマシだ。そしてコンビニで選択肢を誤った僕には、ちゃんとリョウカを家まで送る責任がある。ここで野垂れ死にするわけにはいかない。僕は彼女から目を逸らしながら、水筒の口にキスをして中身を一気に減らした。中は麦茶か何かだった。たくさん飲んでしまうのは悪いとも思ったが、喉の渇きには逆らえない。それに、彼女を残して倒れてしまっては本末転倒だ。
水筒を返そうと向き直ると、赤面してじっとこちらを見ているツーサイドアップの女の子の顔がある。ずっと見られていたのかと思うと、なんだか複雑な気分だ。
「タオル入ってないの? プールで使ったやつ」
妙な空気にどうしても耐えられなかったので、僕は話題を変えた。先ほどハンカチで拭ってやったのに、リョウカの顔はまた汗でべたべたになっている。タオルで拭ければハンカチで拭くよりいいと思ったのだ。
「タオルは重いからって、お父さんが持ってくれたの。だから今は持ってない」
まったく、気が利くお父さんだ。とても娘を大事にしている。今回ばかりはそれが裏目に出てしまったようだが。
「じゃあ、これ貸してあげるから汗拭きなよ」
「ありがとう、お兄ちゃん」
僕は自分の藍色のハンカチをリョウカに渡した。彼女が綺麗に自分の汗を拭い終わると、何かを見つけたように急に立ち上がって走りだす。
「お父さん!」
そう声を上げたのを聞いて、僕はリョウカが駆けて行く先に視線が釘付けになった。
「リョウカ!」
誰かを探している風にしていた若い男性がこちらを向いて、同じくリョウカの元へ向かっていく。中肉中背のどこにでもいるような特徴のない男性だったが、僕にはそれが特別だった。写真で見たものと全く違わない父の姿。あれが……僕の父なのか。目頭が熱くなってきたが、今ここで泣いてしまうのは避けたい。真夏にスノトレシューズを履いている時点ですでにおかしいのだから、これ以上変な奴だと思われるのは困る。
涙をこらえて遠巻きに感動の再会を見守っていると、僕の父もとい男性が近寄ってきた。
「キミがリョウカと一緒にいてくれたんだってね。娘をありがとう。こんなものしかなくて申し訳ないけど、よかったらお礼にどうぞ」
「とんでもないです。ありがたく頂きます」
僕は立ち上がってお礼を述べ、キンキンに冷えた缶ジュースを受け取ると、僕たちは挨拶を交わして別れた。初めて聞く、優しそうな声。初めて見た、姿勢のいい歩き方。初めて実際に感じた、身長の差。リョウカのお父さんは、とてもいい人そうだと思った。
二人の姿が見えなくなったあと、沈みゆく夕日に背を向けた僕は一人で泣いた。