チキータの遺産第一幕 呪いの指輪◆2

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殺戮の化身と呼ばれたテネブラエが世界を支配していた時代はそう昔のことではない。
人はそれを暗黒時代と呼ぶことで、表面上、歴史から切り捨てた。
現在、人間族と魔族の種族差別も薄くなりつつあり、共存共栄というのが人間が打ち出した答えだ。
しかし、かつてのテネブラエの残虐な行いは、簡単に人の心から消えることはないだろう。
彼女は、読心魔法を得意とする魔族と主従契約をして目玉を交換し、片目が蒼色になっており――。
「――魔族でありながら、自力で魔法を行使できない」
フラビオたちは帰り際、テネブラエの資料を再読していた。
特徴がやはり、チキータと酷似している。チキータが魔法を使ったところを、彼は一度も見たことがないし、チキータは片目が蒼いのだ。
そしてなにより、テネブラエが封じられているはずのあの場所に、もう魔族の姿はなかった。
「最近見るっていう夢は、暗黒時代での自分のしてきたことなのかもね。だから、私たちには言いたがらないんだと思う」
チキータは最近、朝目覚めるたびに浮かない顔で挨拶を寄こす。そして、とてもつらい悪夢を見たと話すのだ。
「チキータは、記憶が戻りかけてんのかな」
果たして、チキータが記憶を取り戻すことはいいことなのか。
今日留守番を頼んできたときの、チキータの様子をフラビオは思い浮かべた。なんだかふわふわとどこかに飛んでいきそうな、頭の奥底からボケていそうな少女が頭の中に描かれる。
資料によれば、テネブラエの人格は、破壊をするにも殺しをするにも一切の慈悲を注がず、非常に凶悪だったとある。そんな人格に、あのチキータがなり得るのか。
フラビオは疑問という名の逃げ道を用意してしまう。
記憶が戻ったって、人格が豹変するとは断言できない。もしかしたら、全てを思い出しても、今のままかもしれない。そんなふうに考えながら。
そんな淡い希望を抱きつつ、玄関の前に立って彼は驚愕した。
「なっ!」
鍵を無理やりこじ開けた痕跡がある。
ドアを勢い良く開け放って、自宅に駆け込んだ。すべての部屋を探すが、チキータは見当たらない。荒らされた形跡はない。しかしリビングのテーブルには、魔法学の教科書が乱雑に散らばっていた。
慌てて玄関まで戻ると、その場でしゃがんで鍵穴を覗き込んでいたコラソンが言う。
「これ、うちの自警団のやり方だわ。よりによってこんなときに……」
「ま、マジかよ……」
帝国は今、種族間の差別を固く禁じている。しかし、帝都から遠く離れたこの町は少し異質だった。ここの自警団に魔族が連行されたら、間違いなく迫害される。団長から信頼を置かれるほどの実力者のコラソンでも、口出しはできないことだった。
だがそれ以上に恐ろしいのは、チキータが魔族だからこの自警団では危ないとか、そういう点ではない。チキータがあの、殺戮の化身だと発覚している可能性だ。その場合、自警団の手を離れ、帝国に身柄が引き渡されるだろう。どのような刑に処されるのか想像のすらできない。
と、そこまで考えたフラビオが鉄砲玉のように床を蹴って駆け出し、玄関から家を出た。慌ててコラソンがあとを追い、彼の屈強な腕を掴んだ。
「ちょっと待って! 何をする気!?」
「チキータを連れ戻す! 手を貸してくれ!」
「馬鹿言わないで。何も考えずに突っ込んだところで何になるの? 下手したらこの町にいられなくなる」
「そんなこと言ったって、もう遅いだろ。今さら言い訳なんて通じねえ。何も知らずに一緒に暮らしてましたとは言えない」
そう言ってからフラビオはコラソンの手を振り払った。チキータを救い出しに行くべく、黙々と準備を進めていく。
「連れ戻したところでどこに行くの? 自警団相手ならまだしも……他の町で魔族と鉢合わせたら、帝国兵に連行されてそれこそ牢獄行きよ」
チキータの正体に、今まで自分たちでさえ気づかなかったのは、人間だけの町で暮らしていたからだ。尻尾さえ隠していれば、何十年と定住しないかぎり誰から指摘されることもなく、難なく正体を隠していける。
だが、魔族がいる町ではそうはいかない。魔族にとっての二百年なんてのは、人間で言えば二年程度。
もしも、二年ほど前に世界を絶望の底へ叩き落として失踪していた人物が、自分の前に現れたとして、顔がわからないなんてことは考えにくい。チキータ・テネブラエという存在は、それだけ世界的に悪名高いのだ。
しばらくコラソンは説得を続けた。しかし、その言葉は目の前の出来事しか見えていないフラビオには何の意味もなく、やがて長い沈黙が訪れた。
「チキータはたぶん、地下牢に入れられてる。あそこは迷路みたいになってるから、アンタには無理よ。だから救出は私に任せて。アンタには上層部の錯乱を頼むわ」
諦めたように言いながら、コラソンもいつの間にか様々な荷物をまとめていた。
「助かる」
彼女からは少しの名残惜しさを感じるものの、もともと、ここに住み始めたのは廃鉱の良質なマナクリスタルが目当てだったフラビオのわがままだったので、コラソンも本心ではためらいなどないのだろう。
しかも、そのマナクリスタルはもう採れない。あれはテネブラエがあそこに封じられていたことによって、発生していたものなのだから。
フラビオが家の中に戻ると、机の上に広げられた薄い二冊の本を眺めていたコラソンが彼に問いかける。
「これ、いらないってことになるのかな」
魔法学の教科書と問題集だ。熱心に魔法学に取り組んでなお、なかなか魔法が扱えないと嘆いていたチキータが思い返される。
人間はともかく、普通、魔族なら感覚的に魔法が使えるもので、特別な訓練や勉学は強力な魔法以外では必要ないはずだった。しかも、チキータに与えていた教科書の魔法は全て初歩的なもので、魔族が読むには値しないレベルのものだ。
チキータが殺戮の化身であることは、認めざるを得ない。
それでも、フラビオはまだ希望にすがっていたかった。
「いや、これも持って出る」
「……了解。さて、チキータに何されるかわかったもんじゃないわ。急いで準備して、ビークルを出して」
「ああ」