チキータの遺産第三幕 揺らぐ心◆3

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それはもう、数百年も昔のことだ。
秋の終わり。もうすぐ冬に入ろうかという季節に、彼女は現れた。正直、自分ら三人の力に自惚れていた……いや、チキータの力を過信して、チキータこそが最強の存在なのだと信じ込んでいた彼らにとって、その少女が現れたという事象に対する衝撃は大きかった。
少女はかなりの長身だった。そのときの年齢は十五。背の高さに見合わない幼い顔つきで、それをややコンプレックスに感じていた。
だが、そんなコンプレックスを抱えながらも、性格はわりと適当だった。ハイメがそう評したのだから間違いない。
裏表のない、馬鹿みたいな人間……いや、混血。明らかにスパイ向きでないのに、その少女はスパイの役を託されていた。テネブラエ一味を叩き潰すために、ティスニア帝国・リコテスカ王国及び周辺諸国連合会議で抜擢された人材だ。
「実は私、アンタら探るように頼まれて、来たんだよね」
しかしテネブラエ一味に加わって数日もしないうちに、隠し事が嫌いな少女ははにかみながらそんなことを言った。まだこの頃は、ハイメが読心魔法に長けていることが知られていなかったので、降参して秘密を明かしたという風ではない。
ただし、こんな腑抜けをスパイとして寄こすのは連合が馬鹿だからなのではない。テネブラエは、チキータを打ち負かす強さを持つ者のみ仲間として認める、という意思表示を薄くだがしていた。参加の意思がある、同胞だと言えば簡単にチキータの前に出られるように、ハイメが企てたものである。しかしこれはただの餌として撒かれたものにすぎない。
これを利用しない手はない。そう考えた連合は、次々と強者をスパイとして送り込んだ。そしてその餌にまんまとかかった。ハイメやクレト、チキータ全員でかかって、どんどん殺していったのだ。送り込んだ強者たちを結集すれば自分たちを打倒することができたかもしれないのに、全員無駄死。英雄となり得る者は皆消えた。そして、世界は三人の手に落ちたかに思えた。
そこに現れたのがその少女、アンナだった。
スパイに向いていなかろうと、力がなければ達成できない難題に立ち向かっているのだ。気が狂いそうなほどテネブラエの殺戮は深刻な事態だったので、連合も焦っていた。どうせ死ぬかもしれないが、送り出しておこう。そんなぐらついた決断の結果、アンナはそこにたどり着いた。
しかし、実際に誰の想像さえも超える結果となったのである。
チキータさえ超える、その力。初めから三人でかかって殺す気満々だった相手に対して、多少時間はかかったものの、動けなくなるように縛り上げることに成功した。殺しにきている相手を殺さずに捕らえるというのは、ただ殺すよりも難しい。それだけの実力が、アンナにはあった。
アンナの力があれば、もはやそのままテネブラエ一味を抹殺し、すべてを終息させることはできた。だが、アンナは自分が兵器として生み出された存在だと生まれながらにして知っている。だから彼女は殺しが嫌いだった。
生物兵器。それは例え殺すことが生きる理由だとしても、あえて抗いたい、そう願って生きてきたのだ。できることなら、穏便にことを終わらせたかった。話し合いで解決し和解しようと、アンナは持ちかけたのだ。
当時、世界に対する怒りを原動力に動いていた三人たちは納得しなかった。またもや偽の加入試験よろしく三人がかりでアンナを殺しにかかった。だがその結果は変わらない。何をやっても防がれる。少女は傷一つ負わない。
負ったところで、肉眼でそれを捉えられる前に修復を済ませている。テネブラエ一味は、それはすべて回避されてしまっているのだと勘違いしていたので同じようなものだ。この女はちょっとばかり怪力の人間、三人がそんな風に思ってしまうほど、とても人間をしていた。
なのにどうやっても勝ち目がないのだ。テネブラエ一味三人は一度立ち止まることを余儀なくされた。
「私、アンタらの思いも分かるよ。怒りで復讐する。それってとても人間味があるよ。温かみがある」
(温かみ? こいつは頭の中には花畑でもできているのか?)
このときは三人ともそう思った。
「生き物はさ、みんな感情があるじゃない? それは機械にはないでしょ。だからとても大切なモノだと思う」
生物兵器として生まれたアンナが、兵器としての自らの運命に逆らう理由。それは、感情に従って生きたいからだった。ただ機械のように誰かに忠実に従うだけでは、生を楽しむことができない。
「……面白いことを言う女だな」
読心で薄々その思いと考えがどんな信念から来るものなのか気付いていたハイメは、この瞬間アンナとの距離を縮めた。やがてハイメ伝いに事情を聞かされた二人も、すぐにアンナと親しくなり、そしてやがて彼女を心の拠り所としていた。
のちに暗黒時代と呼ばれるようになったこの時期、三人の怒りはいつも心の底にあり続け、決して消えることはなかったが、それは多少、アンナの力によって癒やされた。魔法ではない、不思議な力。
アンナは和解を進めるため、チキータとよく遊び、ともに楽しく食事を摂った。アンナは和解を進めるため、クレトの権力を活かせないかと提案し続けた。
そしてハイメとは……面倒な出生のことで話が合うからか、いつの間にか恋い焦がれる仲になっていた。アンナ同様複雑な事情を持っていたハイメは、読心魔法でアンナが人間ではないことを見抜いても、それを他二人に明かすことはしなかった。
そして恋を深め、やがてそれは愛となって二人は夫婦となる。アンナの短い命を無駄にしないため、子を作って彼女の血を残すために。

◆◆ 

ロシュエル自警団の官舎の廊下。真っ暗闇だが、それは今が夜だからというわけではなくて、ここが窓のない地下だからだ。ここはただの廊下ではなくて、団員の中でも数名にしか知られていない、秘密の通路だった。
手に持ったマナライトで辺りを照らしながら、カツカツと靴を鳴らして長身の女が歩く。廊下は真っ暗で、女が通るときだけ明るくなって、通り過ぎていったところから再び闇に染まっていった。
やがて天井がとても高いところにある広い空間に出る。
そこには、黒を基調とした長い革の服に身を包む一人の中年女性。そしてその背後には、何やらおどろおどろしい液体の詰まった大きなカプセルが太い柱のように建っていて、中には眠るように沈んでいる十六、七歳程度の女の裸体があった。その頭は、長い赤髪に包まれている。
その死んだように穏やかな顔立ちは、先ほど廊下を渡ってきた長身の女……コラソンに少し似ている。
コラソンはそのカプセルの管が繋がっているもう一つのカプセルを見た。こちらは灰色に塗りつぶされていて、中を窺い知ることはできない。だが、その灰色のカプセルが閉じているだけでコラソンは強い怖気に襲われた。灰色のカプセルは、中身をマナエネルギー化して液体に変える装置だ。
裸体の女はすでに死んでいる。その身体だけでも良質な状態に保ち続けるために、この装置は欠かせない。そして普段、こちらのカプセルは開いている。
閉じているということは、中に誰かが入っているということだ。誰か……きっと孤児院から「里親となる人物が見つかった」という名目で連れだされた魔族だ。確認するまでもない。
次にこの灰色のカプセルが開いたとき、中の魔族はおそらくいなくなっている。正確に言えば、裸体の女の死体を綺麗な状態に保つためのエネルギーとして、第二の人生を歩んでいるだろう。
「イラーナに依頼したのは失敗だったね、コラソン」
「ごめんなさい、返す言葉もないわ……しかも、指輪まで持ち逃げされちゃって……」
中年女性の言葉に、コラソンが声のトーンを落とす。
チキータの遺産に関してコラソンは、チキータもろとも持ち去るつもりだった。彼女は自分になついている。痛い目に合わせたりしなければ、飴を目の前にぶら下げられた子どものようにおとなしくついてくるだろうと踏んでいたのだ。
それがまさか、フラビオの手に渡っていたのは予想外だったので、宿で騒動を起こすような真似をして強引な手段に出ざるを得なかった。
しかもそれもイラーナの裏切りによって失敗に終わっている。無様な話だった。
「まあいいさ、過ぎたことは仕方ない。私にはまだ長い時間があるからね」
中年女性が振り返って言い、自分の右腕を触った。その右腕は義手だった。
中年女性は、自分の腕を奪い取った対象のことを一時も忘れたことがない。その思いを果たすには、何度殺そうと足りないのだ。
「その、カシアさん……」
「どうした?」
コラソンが、中年女性もといカシアに一つ質問を漏らす。
「祖母を生き返らせるのに、本当にチキータの力だけで足りるのかな」
「もちろん。それにもし足りなければ、イラーナでも使えばいい。あの子は水のファミリアだから派手なことはできないが、チキータに並ぶ力がある。原動力としては十分なはずだ」
「そう、だよね」
カシアは淡々とコラソンの疑問を解消していく。
しわの増えた彼女の表情と、その瞳にはとても……とても強い思いがこもっている。悲しみ、憎しみ、殺意すら通り越してしまっていて、もはやその感情を言語化するのは不可能だ。
コラソンはそんなカシアに少し怯えを見せながらカプセルに歩み寄って、そのガラス越しの自分の実祖母、アンナの存在を確かめるように撫でた。ガラスで隔てられたその裸体に、コラソンの手が届くことはない。
アンナは他の魔族とは違って生命維持に回される魔力が少なすぎて死に至った、というはカシアの仮説だ。兵器として生まれたのだから、合っているはずだ。コラソンは仮説が合っていると信じ続けてこの十年余りを生きて、そして最終段階に踏み切ったのだから、合っていなかったら困る。
コラソンは目を閉じ、記憶の奥底に眠る自分の行動原理を確かめた。自分は幼いときから、カシアが教えてくれた自分の祖母という存在に会いたくて、今ここに立っている。
フラビオが敵になるなんていうことは、彼がチキータに守護本能を働かせてしまった時点で決まっていたことだ。
チキータは世界から憎まれる存在だ。長い間ともに暮らしていたからといって、今さら悔やむ必要なんてあるはずがない。彼女がいなくなったところで、困る者は少ないはずだ。喜ぶ人のほうが多いに決まっている。そうに違いなかった。
しかし、同時にコラソンの頭の中にはチキータの笑顔が浮かんでしまう。たった一年……あんな短い間だけ一緒にいた、それだけだというのに、つい情が入ってしまう。
「チキータは恐ろしい奴だよ、いないほうがいいに決まってる」
口を閉じて長い間考え込んでいたからか、カシアはコラソンの心を見透かしたような言葉を放つ。彼女は戸惑った。
「わかってる……わかってるから」
しかし実際のところ、わかってなんていなかった。ただ、わかった気になっているだけだ。コラソンは、長い間ずっと信じてきた自分の行動原理と、今抱いている感情、どちらに従って動くべきか判断が難しい状態にある。
(私は……今のチキータしか知らないんだもの。たくさんの人を殺してきたチキータなんて、私は知らない。想像もしたくない)