チキータの遺産第三幕 揺らぐ心◆2

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老執事に連れられて、フラビオ一行は屋敷の端から中央へ移動して、主の部屋へとたどり着いた。そこには黒い燕尾服を着こなす、いかにもな貴族の青年が悠然たる様子で腰掛けている。フラビオはその姿を見て、最後に顔を合わせた時よりも少し痩せた気がすると思った。
「案内ご苦労。席を外してくれ」
伯爵がここまで案内してくれた老執事に視線を向けて部屋からの退場を命じた。老執事は、軽く頭を下げてその場を去る。
クレト・マルティーニ。雷のファミリアで、雷魔法の中でも捕縛を得意とする魔族だ。そして、かつてのテネブラエの一味である。テネブラエ一味を抜けたあとは、テネブラエの支援組織などに所属していた輩を閉じ込めた牢の番人を任されていたとフラビオは聞いている。
「ハイメ、フラビオ。そしてチキータ。よく来てくれた」
マルティーニ伯がそう言うと、背後からついてきていたイラーナはマルティーニ伯の側へ歩いて行く。フラビオの予想通り、イラーナは伯爵に動かされていたのだ。
しかし同時に、なぜコラソンとつるんでいたのかという疑問が浮上した。カシアとマルティーニ伯が手を切ったのならば、コラソンに味方する理由がない。だがそんな考えも、イラーナのがめつさゆえ、と結論づけてしまえば一蹴できてしまうので、面倒なことは考えないことにした。
「執事のしつけがなってないね。チキータはマルシュ侯爵の娘として扱われるのを嫌がってる」
執事が去ったことを確認して、ハイメが文句をつけた。
先ほどの老執事が呼んだ、チキータ・ロサリオ・ド・ラ・マルシュという名は、チキータの本名だ。彼女は、常に凄腕の風使いを輩出するマルシュ侯爵家の、由緒正しきご息女である。五千年に渡る長い歴史の中、侯爵家で凄腕の風使いとして認められなかった魔族は、チキータただ一人だった。
腕の立つ兄弟姉妹に囲まれる環境と、実父からの押しつぶされるような強い期待。そんな空気に嫌気が差して自ら家を飛び出して、宛もなくさまよっていたところをハイメの両親に拾われたというのが今の彼女のみすぼらしい生い立ち。
だがそののち、殺戮の化身として名を轟かせるに至ったというのは、今もなお有名で皮肉な話である。
「クレトはそんなことも覚えていないのかい」
ハイメが怒りに声を鋭くする中、チキータは冷や汗を流しながらそれを体を張って制止。
「ま……まあまあ、落ち着いてください。クレトは今では表に立つ伯爵家の現当主という立場。侯爵の娘である私の扱いに困るのは仕方がないことです。まだ正式に家を出たことにはなっていないのですから。面倒な手続きをほっぽり出した私の責任でもあるのです」
チキータがハイメをなだめ終えると伯爵に向き直った。
「久しいですね、クレト」
「そうだな。珍しく……というのも変だが、なかなか洒落た格好をしているな」
「ええ、コラソンさんが選んでくれました」
言いながら、チキータはつば広帽のつばをつまんで照れ隠しするように少しだけ深くかぶり直す。
「そうか、コラソンがな。確かにあいつのファッションセンスは目を見張るものがある。ところで、ここ一年フラビオたちと暮らしていたそうだが、こいつは悪い奴じゃなかろう」
伯爵がフラビオを見やって言うと、チキータは嬉しそうに尻尾をふりふり。その顔は食べ物を頬張っているときのそのままで、なんだか腹の虫が鳴く幻聴が聞こえてきそうだ。
「そうですね。毎日おいしい料理を作ってくれますよ」
「そうだろう。こいつは私の息子も同然だからな。自慢できる子に育ってくれた」
(褒めるとこそこかよ)
思わず口に出して突っ込みたくなったが、久しぶりの再会に水を差すのも悪いと思ったフラビオは、心の中にとどめておくことにした。
「それにしても、変わらんな。大食い体質は記憶を消してもそのままなのか」
チキータが食事を摂るようになったのは、自分の家を捨ててハイメの両親に拾われてからだ。それまで、食べ物というものは多くの魔族と同様に口にしていない。つまり、ハイメの家族となってからの生活の変化による影響が大きい。その辺りをさっぱり忘れてしまっているはずのチキータが大食いのままだったのは、伯爵も意外だった。
「むむ……記憶を消しても? まるで誰かが私の記憶を意図的に消したみたいな言い方……」
「おっと、口が滑った」
「チッ……」
ハイメの舌打ち。その伯爵の言い回しに違和感を覚えたチキータが、確認をするように言うと、その問いには伯爵ではなくハイメが答える。
「記憶を消したのは、この僕だ」
その声はまたチキータに心を許していたあのときのように堅い守りが解かれ、彼特有の無感情さが薄れている。それが故意か過失かは、フラビオにはわからない。
「どうしてそんなことを……」
驚いたチキータがさらに訊ねる。
「キミはあの廃鉱に封じ込められてもなお、闇に漂う意識の中罪悪感に苛まれていた。口が動かなくても、痛いほど僕には分かったよ。だから、全部綺麗さっぱり忘れて、今度目覚めるときは幸せに生きて欲しかったんだ。勝手なことをして、すまない」
その気遣いと行いは、読心魔法に長けたハイメならではのものだろう。
「そうですか」
チキータが手短に言う。ハイメはお仕置きを覚悟して待つペットのように、床を見つめて黙っていた。
「……謝る必要なんてないです。ありがとうございます。短い間でしたが、フラビオさんとコラソンさんと、幸せな日々を送ることができました。ハイメが気を利かせてくれたおかげです」
チキータがハイメに優しく微笑みかける。このとき見た彼女の笑顔は、フラビオが今まで見てきた中で最高の笑顔だった。
「私から振っておいてすまないが、そろそろ本題に入ってもよいかな?」
「ふん、さっさとそうしてほしいね」
伯爵の質問にそっぽを向いて受け答えるハイメの表情は、フラビオにもチキータにも窺い知れない。それにしても、明らかに口が滑ったという風ではない伯爵の態度に、フラビオも若干引いていた。
(ハイメと伯爵は、仲が悪いのか……?)
そう感じつつも、ただ仲が悪い、という一言で片付けられる関係でもないように見えた。伯爵はまるで、いたずらをするように楽しんで、ハイメを構っているようなのである。
「さて……ではフラビオ、お前はコラソンの出自を知っているか」
そんなフラビオの思いなどお構いなしに、伯爵が問う。その瞳にどことなく妙な鋭さが宿っていることに気がついて、フラビオは怖気が走った。それでも彼は淡々と答える。
「コラソンは孤児院の生まれだ。俺と同じ孤児だよ。生まれもへったくれもない」
「残念ながら、クレトが聞いているのは、その前だよ」
「その前?」
向き直ったハイメが思いがけない発言をして、フラビオの心を乱す。
(ハイメと伯爵が、孤児として拾われる前のコラソンのことを知っている……?)
「コラソンは普通の人間、そして普通の孤児だった。まだ言葉も発しない頃にカシアに拾われ、本当の娘のように育てられた……そうなんだと、私も最初は思っていた」
「そう思っていた……ってどういうことだ? 実際にそうじゃないか。俺はここ十年は一緒にコラソンといるが、何もおかしなところはない」
勝ち気で気丈、女らしさの欠片もない。拳で語るタイプの男をそのまま女にしたような奴だが、だからといって人としておかしいところは一つもない。ただ、魔力に対して敏感なところがあるだけだ。
伯爵は無言で一枚の写真を取り出す。かなり古い。フラビオが遅れて気がついた、そこに写っていたのは、若きハイメと今と変わらない容姿のチキータとマルティーニ伯。あと一人、歳に似合わない背の高さを持つ赤髪の少女がいる。背丈のせいでパッと見、まるで童顔をこじらせた大人に見えた。
伯爵がカシアによって表舞台側に引き抜かれて、チキータたちのそばから去る直前に撮ったものだ。伯爵が自分たちの敵に回ろうというのだから、このときチキータたちと伯爵の関係は非常に劣悪だったが、それでも大事な思い出にと、心の底からの笑顔を残しておきたいとチキータが提案した。
写真を見てフラビオが少し驚いたのは、思ったよりその写真の中に映るハイメの表情がほぐれていて、どことなく照れているように見えたことだ。こんな表情、今の彼からはどうあがいても想像できない。
「決別する前、最後に撮った写真ですね。右から私、クレト、ハイメ……そして」
「アンナ……」
チキータが一人ずつ名前を上げ、一番左の人物に差し掛かると、まるで最初からそこしか見ていなかったかのようにハイメが彼女の名を呼んだ。唇を噛んで発せられたその声はどこか寂しげだ。その人物がハイメにとって特別な存在であったのは、はた目でも分かる。
「アンナ?」
「彼女はあの頃の、唯一の人間の仲間です。突然私たちの前に現れて、自らの力を認めさせ、わざわざ仲間になって、いつの間にかいなくなっていた。どこへ行ってしまったのやら……まあ、いろいろあったんですよ。彼女はもう、生きてはいないでしょうけれど」
「変な奴だな」
「はい。変わった子でしたよ。女の子なのにやたら力仕事が得意で、だけどオシャレもちゃんとたしなむ。とても感情豊か、そして優しい子で、いつもチクチクトゲを覗かせていたあの頃の私たちの心の拠り所でもありました。懐かしいですね」
チキータが頬を緩ませて思い出に浸っている様子を、イラーナはどこか物悲しさの宿った瞳で見つめている。それを意味するところを知るものは、ここには一人しかいない。
そこに伯爵は唐突に衝撃的事実を叩きつけた。
「アンナは実は人間ではなかったんだ」
「え? まさか……いまさら何を。彼女に尻尾はなかったし、もちろんハーフでもなかった。ハーフなら力が弱くても、さすがにわかりますよ、私にだって。それにハイメが……ごめんなさい」
「気にすることはないさ」
何かを言いかけ、やめる。その頬はどうしてか、やや赤みを帯びていた。どうもやりとりを見るに、ハイメに大きく関わる人物らしい。
当時の状況を知らないフラビオは置いてきぼりだったが、いくら鈍い彼でもこの場で言いたくない内容のようなのは理解できたので、触れないことにした。フラビオは率先して話を戻すことにする。
「この女がどうしたって?」
「この娘は、カシアの妹だ」
伯爵が告げると、チキータとフラビオが目を見開いて叫びを上げる。どうやら、先ほどからだんまりのイラーナや、ハイメたちはこの事実を知っていたようで、声の一つも上げない。とくにハイメは写真が出てきてから様子がおかしい。普段なら、場を乱して茶化すのはハイメの役回りだというのに。
何度も躊躇いなく突きつけられる真実に爆発寸前の頭をフル回転させて、チキータが目を見開き、小声で否定を試みようとする。
「妹!? そんなはずは……」
「妹といっても腹違いだ。そしてアンナは人間の血が濃いワンシックスティーンス、つまりクォーターの次の次だ。十六分の一にまで薄まってしまうと、精密な検査をしなければ魔族の血が流れていることは判明しないし、もちろん尻尾はない」
「なるほど……確かにそうなるとわかりはしないな」
未だ開いた口がふさがらないといった様子のチキータに代わってフラビオが相槌を打つ。だが今はチキータよりも、視界の隅で黙りこんだままのハイメが気がかりだった。
「しかし生まれ方が残酷なものでね。アンナは、もともと戦う目的で生み出されたんだ。人間の高い知性による応用力に加え、全属性を使いこなすことができる兵器としてのファミリアを欲しがっていた軍の研究員が、長い期間をかけて研究していた。とはいっても人造生物の類ではなくて、品種改良みたいなやり方だがね。ひどい話だよ」
魔族はそれぞれの属性に対応する魔神から命を与えられるので、水のファミリア、風のファミリアという分類がなされるのだが、実は魔族以外も便宜上ファミリアとして扱われることがある。例えば、獣人族は身体のファミリア、精霊族は精神のファミリア、そして人間は知性のファミリアといった具合だ。
そしてそこまで考えて、アンナが戦う目的で生み出されるに至った理由が、薄暗い思考の中で単語の形で浮かび上がる。
「千年戦争……」
「うむ」
千年戦争。約千二百年前に人間と魔族との間に生じ、千年もの間終わりを迎えなかった戦いだ。魔族と人間一体一体の間に存在する圧倒的な力量差を、人間は強い結束力と大きな数の差によって覆してその戦いを長引かせていた。
「だがその千年戦争は、アンナが生まれたときには終息に向かっていた。チキータ・テネブラエというより危険で強大な存在が台頭して、魔族のほうから人間に協力を持ちかけたからな」
その一時的なはずだった協力は、あまりにも敵が強かったために最終的には永続的なものとなり、現在の世界体勢が完成したのだ。
「見た目は人間に近しい状態で生を受けたアンナだったが……所詮戦いが終わるまで保てばいいと、消耗品同然に生み出された命だ。その体は魔族の多種属性の魔族の血が混じりつつ人間の血が濃いという型破りな出来だったせいか、非常に不安定でな。どうあがいても十七年ばかり生きたらすぐ死ぬしかなかった」
「十七年って……」
「そんな、短すぎます……」
ハイメとイラーナは黙っている。チキータもフラビオもそれだけ言って、あとに言葉が続かない。
「で、話はそれで終わりかい? そんなわけないだろう?」
長い沈黙が続いたあと、ハイメが少しイライラした様子で口を開いて、伯爵に続きを促す。あからさまに不機嫌だった。
「フラビオ、この腕輪に見覚えはないか」
伯爵が指差したのは写真に映っているアンナという女性。女らしさと男らしさを兼ね備えたかのようなその表情に、フラビオは強い既視感を抱いていた。
胸の前で組まれた腕の片方には、鋭い爪の生えた竜のようなものが彫られた銀の輪がはめられている。おそらくこの竜は、地下に棲むタイプだろう。
「これは……そういえば、同じものをどこかで見たことがあるな」
「きっと、コラソンちゃんだろう。普段ははめていないけれど、大事にしているはずだ」
フラビオがなかなか思い出せないと記憶の糸を手繰り寄せていると、ハイメが意味深に口にした。そういえば、伯爵はコラソンの出自について話を切り出し、そしてこの写真を取り出したのだ。アンナという人物は、コラソンの出自に関係があるのかもしれない。
「アンナは死に際、最後の力で子を残した。その子は戦死したものの、至って普通に生きていた。そしてその……コラソンは、実は、アンナの孫娘らしいのだ」
その言葉に、フラビオは驚愕した。しかし、最も驚いたのはチキータである。彼女はいつ破裂してもおかしくないくらい、顔が真っ赤になっていた。
「えぇー!! じゃあハイメは、コラソンさんの実祖父に当たるんですか!? ……あっ」
「あー、いいよいいよもう。隠す理由なんてない。話す必要がなかったから言わなかっただけ」
チキータは滑らせた口を押さえるが、もう遅い。観念したように手をひらひらさせるハイメの顔は、表情こそ凝り固まったままだったが少しだけ紅潮していた。
フラビオは目を丸くして、そして黙った。少しの間のあと、信じられないと言った顔でぽつりと漏らす。
「……えっ」