シャルロッテとマルセル3 マルセルの心に潜む闇

3
五日目の晩。場所は森から少し行ったところの小路の隅。
今晩もやはり、マルセルはすぐに見つかった。しかしシャルロッテには、今晩はマルセルが自分を待っているように見えた。
それになんだか元気がない。だがそんな暗い表情も、シャルロッテの顔を見るなり、夜風に乗って舞うように消えていった。
「シャルロッテ……だっけか」
「えへへ、そうだよ」
心地よい風が吹く。風になびくセミロングヘアを押さえながらシャルロッテが微笑むのを見て、釣られるようにマルセルも微笑みを返す。
「来ると思ってた。食うか?」
マルセルは、荷物から赤い果実を取り出すとシャルロッテの顔の前に差し出す。エルマの果樹園にもなっている木の実で、シャルロッテは何度も食べたことがある。人間の町には知らないものばかりだと思い込んでいた彼女は、少しびっくりしてその果実を見つめていた。
「おいおい、まさかリンゴ食ったことないとか抜かすなよ?」
「リンゴっていうんだ。食べたことはあるよ、名前は知らなかった」
名前なんていうのは記号に過ぎない。ましてや、あれだけ閉鎖的なコミュニティなら、赤い果実と呼ぶだけで事足りる。名前がどうしても必要なものには、カリンが順次、名をつけていくのだ。
「食ったことあるのに名前知らないっていうのも変な話だな……」
「硬ッ!」
「ん?」
シャルロッテはリンゴを丸かじりして、そのまま芯も口に含んでいた。
「芯は食わないほうがいいぞ。美味いとこだけ食って残りは捨てればいい」
「こんなとこあったんだ。いつもまるごと……」
いつもまるごと口に放り込むから気づかなかった、なんて口走りそうになって、思わず口ごもる。元の大きさのシャルロッテなら、リンゴは一度にいくつか口の中に入れないと味わえない。
マルセルは首をひねっていたが、とくに何も訊かれなかったので、何事もなかったかのように無言でリンゴをかじり続けた。もちろん、今度は芯を避けて。
「お前、どこに住んでんの?」
「私はお前じゃないよ……シャルって呼んで」
「しゃ、シャル? いきなりそんなに距離縮めちゃっていいのかよ」
マルセルはシャルロッテが心を開いてきたことが予想外だったようで、どぎまぎと落ち着かない様子で目を泳がせている。
「いいの、そのほうが、私は嬉しいから」
「そうなのか? じゃあ、シャルと呼ばせてもらうよ」
「うん、ありがと」
「で、シャルはどこに住んでんのよ。夜に出歩いてるのには、何か理由があるのか?」
シャルロッテの住んでいる場所……それは森の中なのだが、それを明かすことはカリンによって固く禁じられている。自分のこともマルセルによく知ってもらいたいシャルロッテにも残念だが、この質問に答えることはできない。
「住んでるトコは、秘密。夜出歩いてる理由は……マルセルに会いたいな、って思って」
「それはまた……直球だな。ずっと俺をつけてたのも、その、そういうこと……だって思っちゃっていいわけ?」
頭を掻いて明後日の方向を見ながら、マルセルはぼそぼそと言った。
「そういうこと? どういう意味?」
「だーもう! 言わせる気か! 言わねえ、絶対に言わないからな!」
ガバッと勢いよく立ち上がって叫ぶマルセルの顔は真っ赤だ。
間の抜けた表情で見つめ返すシャルロッテ。彼女は曖昧な表現から相手の意図を汲み取ることが苦手である。自分を見下ろしながら顔を火照らせているマルセルを見てもなお、シャルロッテは彼の発言の意図を読み解くことはできないといった様子で、小首を傾げたまま彼を見上げていた。
誰かを見上げる、という感覚は巨人の少女であるシャルロッテには新鮮だ。だから気がついた時には、マルセルを見つめたまま何かとても素晴らしいものを見つけたかのような表情になっていた。
「……なんだ? 流れ星でも見つけたか?」
嬉しそうな、驚いたような表情のシャルロッテが自分を見上げてくるのを不思議に思って、まさか自分の顔を見て喜んでいるわけではあるまいと考えたマルセルは首を回転させて星空を見渡す。とくに変わった物は見当たらない。
「空じゃなくて、マルセルの顔を見てたの」
「な、おま! 俺の顔を見るのがそんなに楽しいかよ……」
シャルロッテが、恥ずかしがっている自分の顔を見るのを楽しんでいるものだと勘違いしたマルセルは、整った顔を大きく歪ませて、呆れたようにつぶやいた。
そんなこととは知らないシャルロッテは普段と変わらず、よく分からないとでも言いたげに首をかしげる。
「そういえば……」
「ん?」
シャルロッテがマルセルの荷物を指差す。
「今日はお仕事行かないの?」
シャルロッテが訊ねると、マルセルはしゃがんで目を伏せる。シャルロッテは今晩出会った直後のように、彼の元気がなくなったことに気がついて、聞いてはいけないことを聞いてしまったと思って焦る。だが、どうフォローすべきか分からない。
「そうだな、今日の仕事は休みだよ」
「そうなんだ」
「お前は俺と話がしたいんだろ、今日はずっと一緒にいてやるよ」
「ありがと、嬉しい。でも……」
「でも?」
「私はお前じゃなくて、シャルだよ」
シャルロッテはそう訂正して小さく笑った。
「そうだったな、シャル」
今まで追いかけていた相手が、自分のために時間を使ってくれるというので、シャルロッテは嬉しかった。その嬉しさから、先ほどの失言かと思われた自分の言葉に焦ったことさえ忘れて、シャルロッテはマルセルと二人で静かな夜の町の中、仲良く語り合った。
しかしそんな談笑も、長くは続かない。シャルロッテに許されている時間は、たったの二時間しかないのだ。
シャルロッテがふと時計塔の針に目をやると、魔法の効力が切れるまでもう五分もない時刻となっていた。いつもなら頻繁に時刻の確認を行なっていたのだが、今回はあれだけ楽しかった昨晩よりもさらに楽しかったために、時間をすっかり忘れていた。このまま気づかなかったと思うとゾッとする。
「ごめん、マルセル……私、帰らないと」
時は一刻を争う。今からじゃもしかしたら間に合わない可能性だって考えられた。それでも、少しは森に近づいておいたほうがいい。
「ま、待ってくれよ、いきなりどうしたんだ。もう少しくらいいいだろ」
だが、マルセルはそれを許してくれない。そのまま駆け出そうとしたシャルロッテの腕を掴んで、彼は離そうとしなかった。今の今まで談笑していた相手がとくになんの前触れもなく、唐突に帰ると言い出したのだから、不審に思うのも当然だ。
「俺、変なこと言ったかな? 謝るよ、だから置いていかないでくれ、頼むよ」
マルセルの雰囲気は、今さっきとは少し変わっていた。シャルロッテもマルセルの様子が少しおかしいと気づいていたが、それの理由を推察する能力は彼女にない。
彼の声には絶望の念がかすかだが、しかし確かに込められている。親から捨て置かれたマルセルは、突然突き放されることが苦手だ。しかし残念なことに、普段のシャルロッテにももちろん、心に余裕がない今のシャルロッテにも到底それを汲み取ることはできない。
「離して! 痛いよ、マルセル」
「送っていくよ、もっと話しながらゆっくり帰ろう、いいだろ」
あの日触りたかったマルセルは、いつになく怖いものに感じられた。
「私もそうしたいけど、ダメなの。私は明日も必ず来るよ、その時話の続きをしよ? だから今日は離して」
二人はお互い譲らない。だが、そんな攻防にもすぐに決着がつく。
少しずつ、シャルロッテは体に力が戻ってきていることを感じていた。そして普通の女の子なら振りほどくことなんてできない筋肉質な腕を、強引に振りほどいてしまう。マルセルはその衝撃で弾かれるように飛んだ。
「おい、ちょっと……! 待てよ!」
マルセルは体が痛むことも気にせず声を荒らげる。彼が止める声に耳を貸さず、シャルロッテはその場から逃げ去った。
後ろからマルセルがついてきているのではないか、シャルロッテはそんなことを思いつつも、足音に聞き耳を立てる余裕がない。力強く走っていても石造りの道を踏み砕いている様子はないので、まだ完全に元の大きさに戻っていることはないだろうが、魔法の効力は間違いなく切れかけている。誰にも見られないことを祈りながら、森の結界へと走り続けてその足を止めなかった。
森の中についた時、シャルロッテは泣いていた。いつ元の大きさに戻ったのかは分からなかったが、自分が駆けて来た獣道の土はえぐれて、見るも無残な状態になっている。町の道がこんなことになっていないことを願うばかりだった。
「どうした? びっくりして飛び起きちまった」
そこに妖精のエルマがやってくる。あんなに踏み荒らしてくれば、森の中に響いた足音も尋常じゃないだろう。今回のことを隠し通すにはどう答えたらいいか、シャルロッテは一生懸命考えた。
しばらく黙って、今のシャルロッテにとって米粒のようなエルマを睨みつけてから口にする。
「……トイレだよ、ついてこないで、エルマのバカッ!」
「おっと、俺としたことが。悪かった、スマン」
猛烈に恥ずかしかったが、我ながら上手くうやむやにすることができたとシャルロッテは思う。
振り返ったシャルロッテが涙まで流しているので、泣くほどに恥じらいを感じさせてしまったと勘違いして猛省するエルマ。イケメンにあるまじき失態だ……などとぶつぶつ言いながら、エルマはそこから早々に飛び去った。
シャルロッテを呼び止めた相手がカリンだったらこうはいかなかっただろう。