ルテリカ王国物語第二章 心の傷に巣食う闇◆3

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焚き木に火がついて、暖がとれるくらいに大きくなった。カタリナが寝袋を取り出し、その中に潜り込む。睡眠導入剤代わりに一杯呑んでいる彼女は、顔がやや火照っていた。
「なんかいいわねえ。こういうの」
星を眺めて寝る。カタリナとフェリクスにとって、五年前に公爵領から逃亡したとき以来だった。彼女たちに関連づいている思い出はあまり良いものではなかったが、気分が悪くなるどころか、とてもすっきりした、暖かな気持ちになった。
「お前は、眠らないのか?」
フェリクスがケビンに訊ねた。
「僕は見張りをするよ」
「見張りは俺がやるよ。ガキはガキらしく寝てろ」
「でもなあ……」
フェリクスはそういうものの、ケビンは少し心配なようだ。彼の本職は医者であり、サバイバルではないからだ。王国の目をかいくぐってレジスタンスとしての活動をしているケビンは、自分のほうが見張りの能力が高いと自負しているのである。
それを察したカタリナが寝袋の中から言った。
「フェリクスはこう見えてもすごいのよ。王国の医師団に……」
「馬鹿、それ以上言うな」
「王国の医師団? ああ! 名前に聞き覚えがあると思ったら、アルトマイアー団長の息子さんが、中隊長を継いだって」
ケビンが反応し、フェリクスが額に手を当てる。ケビンの指摘通り、フェリクスはルテリカ王国軍医師団で中隊長を務めていた経験がある。
ケビンはとくに機嫌を悪くしたりしてはいないようだが、一応レジスタンスの幹部を名乗る少年だ。王国をひどく憎んでいるに違いない。説明の必要がありそうだと言い訳がましくその重い口を開く。
「親父の跡を継いだだけだし、そもそも五年も昔のことだ。魔女狩りが始まってすぐやめた。カタリナを面倒見てやるには、王国にいると面倒だからな」
「そっか、なるほど。軍医も一応、いざというときに備えて特殊訓練受けるもんね」
「ん、詳しいな」
フェリクスが意外そうな声音で素直な感想を漏らす。
ルテリカ王国に属する軍医が特殊訓練を受けるというのは事実だ。傭兵の資格もこのときとらされた。実をいえば、医師団単体でも一個小隊に少し届かないくらいの力を持っている。しかし、彼らが特殊訓練を受けている旨はごく一部の人間しか知らないことだ。
フェリクスは不審に思ったが、相手は子どもと言えどレジスタンスの幹部を名乗っている。敵の情報収集は戦闘の基本なので、これくらいは知っていてもおかしくはないと考え直し、自らを納得させた。
「まあ、そういうわけだ。任せておけ。どうしても眠りたくなったら、そのときは交代をお前に頼むから」
この言葉は嘘ではなかった。子どもに見張りを任せるのは確かに多少は心配だ。しかし、睡眠欲という生理的欲求には、たとえフェリクスでも勝てないことがある。そのときは、彼の厚意を受け取るとしよう。
十五という年齢は、いろいろと複雑な時期だ。フェリクス自身も、その頃子ども扱いされるのを嫌がっていたり、やけに人に頼ってもらいたい願望のようなものがあった気がした。
ケビンは「わかった」とだけ返し、そのままその場に横になった。

明け方。彼らはひどく物騒な音で、目を覚ますことになる。
銃声だ。
それも数発ではない。音だけでも、狩猟というには明らかに不自然なのがフェリクスにはわかった。間違いなく何者かが複数人で争っている。
「起きたか」
フェリクスが銃声に耳を澄ませてしばらくして、ケビンが起き上がった。黙って周囲を見回し、銃声のする方角へ体を向ける。
「王国軍とレジスタンスが戦ってるみたいだ」
「音でそこまでわかるのか?」
「正確には音じゃないけど、まあちょっとした小細工でね」
軍医として従軍していた頃の記憶を探れば、フェリクスだって確かに銃声から銃の種類くらいは特定できる。おそらく大勢の長銃と、少しの拳銃が混じっている。だが、それだけで傭兵なのか賞金稼ぎなのか、はたまたレジスタンスなのか王国兵なのかとまでは判断し難い。
「小細工ねえ……」
フェリクスはうさんくさそうにつぶやいただけで、それ以上言及しなかった。
「もう……何ようるさいわね……」
カタリナが目を覚まし、ささやくように文句を垂れる。無理やり布団をひっぺがされた朝に弱い子どものようなその言い草に、フェリクスは呆れを隠せない。
「お前さあ……自分が何しに行くのかわかってるのか」
「んー、レジスタンスのアジトに行く?」
寝ぼけ眼をこすりながら、寝言のように返事をするカタリナ。
レジスタンスとは、反政府組織。つまり、一般に考えたら悪党であって、カタリナたちはその悪党の仲間になろうとしている。だというのに、常識というものを知らない彼女は変に平和ボケしていた。
「大丈夫かよ……」
「しっ、静かに。誰か近づいてくる」
フェリクスが口をつぐむと、続いてようやく気を張りつめたカタリナが黙る。かなり接近されているのがフェリクスにもわかった。けたたましく鳴り響く銃声に混じって、草をかき分ける音がすぐそばで聞こえる。
(まずい……か?)
ただ、近づいてくる相手は、一切の攻撃行動をとっていないようだった。銃の引き金を引きつつ後退しているのなら、同時に銃声も近づいてくるはずだ。
どうやら、対象は這いつくばるようにしてこちらに接近しているようだった。そしてどうしてか、腐った肉の焼けたような、奇妙な臭いがする。
と、草陰から横ばいになった人影が現れた。
「う……うぐ……」
王国兵だった。
「な、なにこれ……」
カタリナが思わず声を漏らした。彼女の目は光を失せて、大きく見開かれている。
兵士の男は丸焼きにされたかのように全身を火傷している。皮膚は痛々しくただれ、現代の医療技術ではもう助からないのは明白。目は辛うじて開いていたが、あとは息を引き取るのを静かに待つばかりだ。
今すぐにこの場を離れれば、少なくとも……この兵士によって、カタリナたちの存在が他の兵士に知れることはないだろう。
だが……。
(まずい……カタリナが……)
王国兵のひどい火傷痕を見たフェリクスは、真っ先にカタリナの心配をした。
「〝光の精霊を従えし大いなる存在よ、我にその力を貸し与え、彼の者に――〟」
震える、しかし厳かな声音でカタリナが魔法の詠唱を始め、フェリクスが慌ててとめる。
「馬鹿、何をしてる……!」
やたら大きな魔法陣が浮かび上がったのと、耳に入った呪文からして、素人にもなんとなくそれがかなり強力なものだとわかった。そして治癒魔法専門を自称する彼女が使う魔法は、当然ながら治癒魔法しかない。だから、とめないわけにはいかないのだ。
治癒師を患者が密告するような世の中だ。王国兵なんて治療してしまえば、カタリナは即刻処刑台送りである。
「なんで止めるの! 私が治療しなきゃ、この人は死んじゃうわ!」
「死んでいいんだよ! この兵士は死ぬ運命だ。死んでもらわなければ困る」
医者にも手に負えない以上、魔女が治癒魔法で癒やすほか、この兵士が生き延びる道はなかった。だが、魔女という存在が悪になった今、おおやけにはこの兵士に死ぬ以外の道は残されていない。
「医者のくせに、よくもそんなことを口にできるわね……」
「だからってなあ……!」
カタリナは目に涙を溜めていた。そして少し錯乱しているようにも見える。
実際、彼女の心はひどく乱れていた。収集がつかないほどに混乱した感情が心中でうごめいて、小刻みに揺れる青の眼球は捉えるべき現実を見失っている。
我に戻ったフェリクスは雑念を振り払うように首を振る。血が上った頭を冷やすように、大きく深呼吸をした。カタリナを落ち着かせるのは、彼の役目だ。
カタリナの頭に、手のひらを優しく乗せて言う。
「確かに、俺は医者だ。医者としてできれば多くの命を救いたい。だが、それ以前にお前を守らなければいけない。もうお前は、俺の嫁だからな。だからお前を危険に晒すことはできない」
カタリナにとっての危険。それはフェリクス以上に、カタリナ自身がよくわかっていたはずだった。なにせ彼女の母は、その危険因子によって命を失ったのだから。だが、彼女は行動を起こさずにはいられなかった。
「でも……でも……!」
カタリナは嗚咽混じりに言葉を漏らして泣き崩れてしまう。フェリクスはその場にしゃがみこんで、彼女を支えた。
「その……早く逃げよう。他の王国兵がこの人を探しにやってくるかもしれない」
黙って二人のやりとりを見ていたケビンが、気まずそうに口を開いて提案する。フェリクスはうなずいて、力なく崩れ落ちた彼女を肩で担ぐ。フェリクスの屈強な体に、一粒の涙がこぼれ落ちた。
「カタリナ。お前の言いたいことはわかる。だが、今はここから離れるぞ」
「ついてきて。このへんで普段からレジスタンスが落ち合うポイントにしてる場所が、すぐ近くにあるんだ」
ケビンに誘導されて徐々に離れていく二人の背中を濁った視界で眺めながら、死にかけ王国兵は静かに息を引き取った。