チキータの遺産第三幕 揺らぐ心◆5

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ハイメが部屋から去ってしばらくすると、屋敷のメイドが現れて「もうすぐ昼食の時間になります」と言ってフラビオを食堂に案内した。そういえば今は客として屋敷に招かれているんだった。食堂には、まだ彼の他には誰も来ていないようである。
そこには何十人と座ることのできそうな長いテーブルが一つあり、すでに豪華な食材たちが、高価な皿に盛りつけられてフラビオを待ち構えている。その種類は、海の幸から山の幸まで幅広い。
こういう場で食事を摂ったことが数えるほどしかないフラビオは、少々困惑していた。一番近いのは、つい半年ほど前にあった知り合いの結婚式のときだ。そのときは席次表があり、元から座る場所が決まっていたのだが、そういった類のものは見当たらない。
メイドに訊ねようかとも思ったが、彼女はフラビオを案内するなり頭を下げてすぐ出て行ってしまった。今広々としたこの食堂には、フラビオ一人しかいない。
(確か上座だの下座だのあったよな……こっちから見てどっちが上座になるんだっけ……)
上座ほど豪華なイスになってたりしてくれていれば分かりやすかったのだが、残念なことにそういうことはなかった。さすが伯爵という地位にある者の屋敷というだけあって、視界に入るものすべてが当然のように豪華に装飾されている。彼は内心頭を抱えながら、しばらくテーブルをぐるぐるする。
「フラビオさんは、ここに座るのが適当かと思います。最も上座になるのは向こう側です。基本的に、入り口から遠いほうが上座」
フラビオが一人でまごまごしていると、いつの間にか来ていたチキータがフラビオに説明を重ねていく。
「そして先代伯爵がいつもあちらに座っていたので、クレトはそこに座るでしょう」
チキータは一番奥の席を指してそう言った。
彼女はれっきとした貴族の生まれなのだ。やはり高貴な生まれと育ちなだけあって、テーブルマナーはわきまえているらしい。食べることになるといつも意地汚い、そんなチキータしか知らなかったフラビオは、驚きを隠せないでいた。そんな仰天顔を見るなり、チキータはふくれっ面でずんずんとフラビオの近くまで歩み寄って言う。
「私だってですね、時と場合によって行動を変えてるんです。こんな場面でつまみ食いするような女じゃないですよ」
「普段からそうしていればいいのに……」
食事が楽しみだからなのか、それとも全く関係ないのかは分からないが、確かにハイメの言う通り、チキータはフラビオが思うほど精神が擦り切れてしまっているようには見えなかったし、むしろ今までよりずっとよく見えた。
そんな様子の彼女とフラビオを横に並べたとき、フラビオのほうを心配に思ってしまうのは必然と言える。
「もう、分かってないですね、フラビオさん。みんなで楽しく食べましょうって時に、テーブルマナーをガチガチに守っていたら楽しくないでしょう? それが状況を判断して行動を変えるってことなのですよ」
「そういうもんかねえ……」
「そういうものです」
言いながらチキータは伯爵の斜め前となる次席、つまり一番の上座から数えて二番目の席に座った。ちょうどフラビオの隣だった。チキータの向かい側となる三番目の席はイラーナ、フラビオの向かいとなる五番目の席にはハイメが座るのだろうか。
ハイメのすぐ横に座らされるイラーナを思うと、少し可哀想な気分になった。ハイメは少々ひねくれているものの、根っから悪い奴ではないことはフラビオも分かっていた。だがそれでも、心の中を覗かれるのはいい気のしないものである。
二人が席に着いてすぐに伯爵とハイメ、そしてイラーナがメイド達とともにやってきた。だが、彼らが席につくのと同時に、メイド達はすぐに去っていってしまう。
ふと見れば食事は自分たち五人の分しか用意されていない。執事たちや彼女らはあとで食べるのだろうか。
「メイドや執事には出してねーんだろ、タブン。どうせみんな魔族だし……魔族にとっちゃ食事なんて貴族の娯楽だよ」
「そうなのか?」
フラビオが食事が開始されてもなお思案顔で髭を撫で回し不思議そうにしていると、イラーナがそんなことを言った。
彼ももちろん、魔族は食事がなくとも生きていけると知っていた。しかし、ロシュエル孤児院では人間、魔族に関わらず、当然のように食事が出ていたので、まさかそこまでのものだとは思っていなかった。
「まあ、イラーナの言う通りだな。ちなみに普段は私も食べていないよ。来客があるときだけだ」
「へえ……こんなでかい食堂があるのにもったいないな。てことは、じゃあ俺以外は何も食わなくても平気なのか」
フラビオはキラキラと輝く装飾が施された壁と天井を見渡しながら言い、そしてなんだか申し訳なくなって食欲をなくしかける。自分たちがここで匿われている限り、伯爵にとって無駄な出費が出続けるということなのだから。
だが。
「平気? とんでもないです。私は食事が好きなので困ります。とくにこの大きな殻付きのエビがぷりぷりで……あとこっちの……」
「僕も半分人間だから、少しは腹が減る」
「もちろん私もタダで楽しめるってんなら、残さず食っていくぜ」
「そういうわけで、何も気にすることはないよ」
フォローと言っていいのか、遠慮というものを知らない三人の様子に伯爵が苦笑いしながら言った。少しは気分が楽になったフラビオは、自然と顔に伯爵と同じ苦笑が浮かぶ。だがそれもすぐにごく当たり前の微笑に変わって、食事の続きを楽しむことにした。
だが、いつまでもここで隠れて暮らそうというわけにいかないのは揺るぎようのない事実だった。